GBAで、どうしてこんなに面白いゲームを創ってしまうのか? PS2、GCと比べたら非力なことは明らかだし、DCと比べたって劣るであろうGBAで。 面目丸つぶれだ!と枕を涙で濡らしているクリエイターが沢山いそうである。 『マジカルバケーション』は怪物君だったのだ。 とにかく、ぎゅうぎゅうに詰まっていた、このゲームは。 物語が高密度なら、プレイヤーに要求するものもただ事ではなかった。 やるべきことはいっぱいあったのである。 普通なら「めんどくせえぇ!」と投げ出してしまいたくなるところが、そうはならない。 極めてコンパクトにまとまっているのだ。 それは面白さの密度が高いということを意味する。 少しだけ具体的に書こう。 例えば、キャラクターが15人いるからといって、いちいち全員の物語を書かないで、一本の筋道でキャラを立てていく。 短くてパンチの効いたテキスト。 マップは徒に大きすぎず。 決して広くはないマップ上であっても、ただ歩かせるだけでなく、シールや精霊を探しながら歩かせる。 戦闘システムは精霊数(n)に応じた倍率(2のn乗)効果導入する事により、上手に戦うと短時間で終わる上に、ヘマすると即全滅の緊張感をプラス。(精霊はなんと16種。それぞれに強弱関係あり) 加えて「こんにゃく様集め」などの収集要素。 沢山のことが余りにもコンパクトにまとまっているので、ゲームデザイン自体がパズルの様だと私は感じた。 「コンパクト」という意味は、テキスト的であると、時間的であると、マップデザイン的であるとを問わない。 凄まじい完成度であった。 私は、何でGBAでこういうのを創っちゃうんですか?やめてください!と思うのである。 私は帰省するとき必ずゲームマシンを持って帰るのだが、今年はGBAを握りしめる姿をさらす羽目になった。 もはやそこに言葉はなかったのである。 まあ、それはいいとして、話を冒頭の「GBAで、どうしてこんなに面白いゲームを作ってしまうのか?」に戻したい。 感動の余り、プレイしながらこれを考えずにはいられなかった。 すると、逆にGBAだからだったのかな、と思えてくるのである。 GBAのキーワードは「制限」。 作り手としては、画面効果はこの辺が限界、メモリの容量はこの辺が限界、というのが見えている。 しかも携帯用ということで、想定する一戦闘時間、あるいは総プレイ時間も少し短めに、とか、一度に表示できるキャラ数はこれぐらい、とか必然的に決まってくる。 そういう制限が最初にあればこそ、その中に面白さを詰め込むためにはどうすのればいいのか?という思考を巡らせることが出来るのではなかろうか。 もっとも、こういう話を進めていくと、結局ゲームマシンは新しくならなくてもいいんじゃないの?という話になってしまいそうである。 制限がなくなると面白いゲームが作れなくなる、ということならば。 だが、私はそうは思いたくない。 むしろ、これはアンチテーゼなんだと思いたい。 あれもこれも出来る中で、ゲームの面白さがどこにあるのかを見失いがちな次世代機、次次世代機に対する。 GBAはアンチテーゼというには余りにもメジャーすぎるので、応援したくはないのだが。 かつてGBがそういわれたように、GBAも「結局この10年の勝者は、PS2でもなくGCでもなく、ましてやXboxでもなくて・・・」なんて話になったら困りものである。 ホントになりそうなんだよなあ・・・。 |