カルドセプト セカンド

屈辱を憎しみへ、憎しみをプレイへと 2001_08_03

 

先頃、DCで『カルドセプト セカンド』というゲームが発売された。
このゲームの起源は、SSで発売された『カルドセプト』である。
サターン版も極めて優れた作品だったのだが、珍しくファミ通のクロスレビューでも見誤ってしまい、発売後になって特集が組まれた経緯を持つゲームでもある。

このゲームを簡単に説明するとすれば、私は「カードゲーム+モノポリー」である、と表現したい。
私は自分の領地に敵が止まると思わず「いらっしゃーい」と言うのだが、カードゲームなので乗っ取られたりするのはご愛敬である。

私は期待していた。
このゲームでこそ、DCの持っているネットワークマシンとしての可能性を見いだせるのではないか、と思っていたからだ。
というのも、現行の通信スピードではリアルタイムのゲームは難しい、ということを感じていたからである。
多少タイムラグがあっても気にならず、そのタイムラグがゲームの本質を損ねない、そんなゲームが必要なのではないか。
つまりそれは『カルドセプト セカンド』そのものだと思ったのだ。

一日一戦を繰り返し、7月28日にようやくストーリーモードをクリアした私は、駆け込み的にネットワークプレイに参加してみた。
「駆け込み的に」というのは、接続ライセンス無料期間が7月末日までだったからである。

しかしながら、ネットワークプレイをしてみて私が思ったのは、こんなプレイで良いのか?ということだった。
確かに楽しくはある。
みんなよくしゃべるのだ。
だが、しゃべりすぎる余り、ゲームに集中できないし、絶対勝つ!という気持ちにもなれない。
そもそも、会ったこともない人たちといきなりプレイして、激しさを前面に押し出したプレイなんか出来ないだろう。
こんなプレイでは意味がないと思った。

ゲームで対戦するとき思い出すのは、いつも『フォーメーションサッカー2』で戦っていた自分である。
熱く激しかった。
負けると無性に悔しかった。
「もう一回タイトルマッチをやってくれ!」と頼むときの屈辱。
「どーしよっかなあ〜」などと嘯く(うそぶく)友人に、私は憎しみさえ覚えた。
どうせやるなら、あんな激しさが欲しい。
屈辱が憎しみに変化し、それがプレイへと昇華していくような・・・。
いまの私にそんなプレイが出来るだろうか?、『カルドセプト セカンド』において。

『カルドセプト セカンド』というゲームの持つポテンシャルには疑義を差し挟む余地がないだろう。
問題は結局、私の方である。
もっと高いレベルで戦う意志があるのかどうか。
やるならカードを集める過程を経て、上級者と戦わなければならない。
いまの私にその覚悟があるのか?

正直言うと、ちょっと荷が重い気がしている。
私はまだ世界一のゲーマーを目指す、スタートラインにすら立てていないのだ。


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