世界規模の核戦争が起きたらどうなるのか? 一昔前はよく考えられたテーマである。 冷戦時代にはそれなりに真実みがあったのだ。 例えば、漫画『北斗の拳』の舞台設定だって当時そんなに奇異なものではなかった。 しかし、今は考えられることも少なくなったようだ。 冷戦が終結した今となっては、そういう状況は仮定とはいえ想像することが難しいのである。 このシナリオは急速にリアリティを失ってしまったのだろう。 私もここのところ考えてみようとは思わなかった。 ところが、近々起こる核戦争で死ぬまでに何がしたいかを考えてみると非常に興味深い。 同じ死ぬにしても、「余命一年です」と癌の宣告を受けたりするのとは全然違うのだ。 自分だけが死ぬんだったら、風俗でも行って気持ちよくなろっかなー、とか私なんかは思うわけだが、みんな死ぬわけだから風俗はやっていないのである。 風俗嬢だってこれからも生きていくつもりでお金を稼いでいるわけで、死ぬんだったら働かないだろう。 どうせみんな死ぬんだ、という話になると、今の社会が途端に機能しなくなるわけだ。 残り僅かな人生を楽しもうにも楽しめないのである。 なんでこんな話を書いているのかというと、今頃になって『終末の過ごし方』というエロゲーをプレイしたからである。 この作品は99年にCD-ROM版が発売されたのだが、私がプレイしたのは今年になって発売されたDVD版の方だ。 この作品の中では、一週間後にほぼ人類が死滅することが確定したにもかかわらず、何をして良いのかわからないので、いつも通り学校へ出てきてしまう学生達が描かれている。 物語の意味するところは、どうやら「どうせみんな死ぬんだから、最後ぐらいお互い素直になれるよね」ということのようだ。(そこにエロが入れてあるんだけど) それは「終末」が人間関係にもたらす作用である。 高校生の時に終末がきたとしたら、果たして私は何がしたかっただろうか? 俺は死ぬその瞬間までゲームし続けるぜ!と言い張れたら大変素晴らしいことだったが、残念なことにあの当時の私にそこまでの心意気はなかった。(電気が使えないかもしれないし) 強いていえば、ゴムボール野球がしたかったかもしれない。 出来ることならば単語帳を持たずに。 私たちは毎日昼休みにゴムボール野球をやっていたが、出来の悪いヤツほどあきらめが悪いもので、そのポケットにはいつも英単語帳が入っていたものである。 自分の打席が回ってくるまでの間はその単語帳を読むのだ。 毎日小テストがあったし、その先には受験が待っていた。 一回ぐらいは単語帳を持たないで、心おきなくゴムボール野球をやってみたかったかな。 あの当時はあれが一番楽しかったかもしれない。 まあ、それ以前に学校へは行かないか。 |