戦場のヴァルキュリア

日本的なゲームのあり方 2008_06_10

 

『戦場のヴァルキュリア』を4週間もかかってやっとクリアした。
もの凄く時間のかかるゲームだったな。
しかし、私は大満足だった。
満足度が高くなるようにゲームが出来ているのである。
たぶんこういうのが日本ではウケると私は思うな。(もっともそんなに売れているわけではないようだが)
このことを説明するために、ちょっと関係のない話から入る。

任天堂の社長が「任天堂はゲームへの情熱を失ってしまったのか?」という問いかけに対して、『メトロイドプライム3』や『トワイライトプリンセス』を挙げて反論することに私は違和感を覚える。
海外ではいざ知らず、少なくとも日本で求められているものは違うと私は思うな。
日本で求められているものは、成果保証型のゲームなんじゃないか。
成果保証型ってなんじゃいと問われれば、プレイヤーの能力に依存しないで、一定の時間を費やしたら一定の喜びを得られるであろうとプレイヤーが期待するゲーム、と私は答えたい。
なぜこういうゲームが求められるのかと言えば、他の楽な娯楽との競争が激しいから、とか、日本人が全般に忙しいから、とか色々書くことは出来るのだが、ここではやめておく。

成果保証型ゲームの典型に日本で発展してきたRPGがあるわけだが、最近もう一つ軸が出来てきたな、と私は感じている。
それはいわゆる覚えゲーと言われる類のものだ。
プレイヤーの成長は通常個人差があってなかなか捉えにくいものだが、負荷が覚えることに掛かっていれば、さほど個人差が出ない特徴がある。

『戦場のヴァルキュリア』なんかはまさしく知っているかどうかが全てだ。
このゲームはユニットの相性が非常に大きく効くので、どこにどのユニットがいるかが分かっているか、分かっていないか、で難易度がまるで変わってしまう。
また、敵は全力を尽くして戦うのではなく、一定の制限の中でしか動かない。
それを知っていれば、プレイヤーは戦略を容易に組み立てることが出来る。
結果、一回目にプレイしたときはゲームオーバーになっても、2回目にやったときは簡単に勝てたりするわけだが、プレイヤー側からするとそれはあたかも自分の成長によってクリアしたかのような感覚を得られるのだ。
最初失敗したとしても、そのことが必ず次への布石になる、という意味で常に成果をあげることが出来る構成になっているのである。
このゲームの満足度の高さはこの辺にあるだろうと私は思っている。

どんなゲームにでも多かれ少なかれ覚えることがあるわけだけど、覚えることをゲームの中心に据えると喜びを保証する効果がある、ということはどうも確かなようである。
そういえば『ゼルダの伝説 夢幻の砂時計』の時もそんなことを書いたような記憶があるな。
ちまたで大人気のモンハンだって、負荷のメインは覚えることだからな、私がやった限りでは。
覚えること≒クリアすること≒喜びと考えれば、覚えることにかかる負荷をお友達と知識を共有することで小さくし、負荷を乗り越える喜びの増幅率を上げているんだ、と考えることも出来るわけである。

自分で自分のことをゲーマーと呼ぶような連中は、大抵覚えゲーをあまり良くは言わない。
負荷の性質から見て、クリアしても自慢にならないものだからね。
しかし、『戦場のヴァルキュリア』みたいな使い方は、おそらくこれからもっと使われるようになるだろう。
RPGの経験値のようにゲームの中に蓄積していくのではなく、プレイヤーの中に蓄積していきながら、それでいて確実に喜びを保証できるものって他にないからな。



<後日談 2009_06_03>
「成果保証型ゲーム」の定義の立て方が間違っていることに気付いた。
創り手側の視点で立てないといけないから、「一定の時間を費やしたら必ず一定の喜びが得られるように創られたゲーム」とすべきだな。


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