『くまうた』を創った森川氏がNDSでゲームを出すという。 『くまうた』の情報を検索しているときに森川氏のHPを見つけてときどき読んでいたので、ちょっと気になる作品だった。 NDSならば当然SCEを儲けさせることにはならないので、今回は安心して購入することができたのである。 そのゲームの名は『ガラクテイル』。 何とも安直なタイトルである。 「ガラクタ」と「tale」を足したんだろうと容易に想像がつく。 ゲーム内容も全くそのままだった。 仲間にしたガラクタを使って謎解きらしきことをしていく、アドベンチャー仕立てのゲームである。 ガラクタってのは、ガラクタになる前には当然本来の効能を持っていたわけで、それを動詞的に使ってやるのだ。 アイコン的に使う、と言った方がいいのかな。 まあ、それはどっちでもいい。 私はこのゲーム、凄く気に入っているのだが、一つプレイしながら考えていたことがある。 それは、ガラクタじゃなきゃダメなのかな?ということだ。 ゲームを構成する謎解きにせよ、戦闘にせよ、要するに、そのアイテムの機能を利用しているだけなので、ガラクタじゃなくても成立するはずなのである。 敢えてガラクタであるからには、きっと何か意味がある。 その何かを考えながら私はプレイしてきた。 これは偶然なんだけど、今日、姉妹で12年間使い続けたランドセルの話がYahooのヘッドラインニュースに載ってた。 ボロボロですよ。 赤いランドセルなのにすり切れて、大部分が白くなってしまってる。 しかし、このランドセルの写真を見ると、きっとこのランドセルには思い出が詰まってるんだろうな、なんて感じたりする。 たった一枚の写真からでも。 効用を果たし終えたモノには、何かが宿るんだな。 やっぱり、動くはずのない道具が勝手に動き出す、ということに説得力を持たせるには、ガラクタじゃなきゃだめなんだろう。 動き出すには人に使われた過去が必要だ。 使った人にとって特別な思いがあれば、それは動く力になるような気がするんだよ。 ガラクタという設定にはやはり意味があるのである。 特別面白くもないこのゲームが、なぜか私には素晴らしいゲームのように思えるのだけど、それもガラクタであるが故なのかもしれないな。 |