ガラクテイル

ガラクタ物語 2006_03_23

 

『くまうた』を創った森川氏がNDSでゲームを出すという。
『くまうた』の情報を検索しているときに森川氏のHPを見つけてときどき読んでいたので、ちょっと気になる作品だった。
NDSならば当然SCEを儲けさせることにはならないので、今回は安心して購入することができたのである。
そのゲームの名は『ガラクテイル』。
何とも安直なタイトルである。
「ガラクタ」と「tale」を足したんだろうと容易に想像がつく。

ゲーム内容も全くそのままだった。
仲間にしたガラクタを使って謎解きらしきことをしていく、アドベンチャー仕立てのゲームである。
ガラクタってのは、ガラクタになる前には当然本来の効能を持っていたわけで、それを動詞的に使ってやるのだ。
アイコン的に使う、と言った方がいいのかな。
まあ、それはどっちでもいい。

私はこのゲーム、凄く気に入っているのだが、一つプレイしながら考えていたことがある。
それは、ガラクタじゃなきゃダメなのかな?ということだ。
ゲームを構成する謎解きにせよ、戦闘にせよ、要するに、そのアイテムの機能を利用しているだけなので、ガラクタじゃなくても成立するはずなのである。
敢えてガラクタであるからには、きっと何か意味がある。
その何かを考えながら私はプレイしてきた。

これは偶然なんだけど、今日、姉妹で12年間使い続けたランドセルの話がYahooのヘッドラインニュースに載ってた。
ボロボロですよ。
赤いランドセルなのにすり切れて、大部分が白くなってしまってる。
しかし、このランドセルの写真を見ると、きっとこのランドセルには思い出が詰まってるんだろうな、なんて感じたりする。
たった一枚の写真からでも。
効用を果たし終えたモノには、何かが宿るんだな。

やっぱり、動くはずのない道具が勝手に動き出す、ということに説得力を持たせるには、ガラクタじゃなきゃだめなんだろう。
動き出すには人に使われた過去が必要だ。
使った人にとって特別な思いがあれば、それは動く力になるような気がするんだよ。
ガラクタという設定にはやはり意味があるのである。

特別面白くもないこのゲームが、なぜか私には素晴らしいゲームのように思えるのだけど、それもガラクタであるが故なのかもしれないな。






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