テレビゲームは何かしら得をするものである。 そのための有力な方法の一つが置き換え。 現実に価値のある行為をゲーム中の操作に置き換える事によって得をするのだ。 だからこそ、置き換え元との同一性を操作に持ち込む事が重要なテーマになってきたわけである。 しかし、だよ。 結果的に死んでしまうのであれば、それは果たして得と言えるのだろうか? 得でない事を置き換える意味が果たしてあるのか? それが『What Remains of Edith Finch』をプレイする前に私が考えていた事であった。 邦題は『フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと』なのだが、若干ニュアンスが違うような気がするので、原題で覚えておきたい作品である。 このゲームでは、なぜかみんな死んでしまうフィンチ家最後の生き残りである主人公が、死んだ人たちの記憶を追体験することになる。 結果的にはみんな死んじゃうんだ。 それは事前に知っていた。 にもかかわらず評判が酷く良い事も。 だから、セールの時に買っておいた。 同一性は凄く高い。 一人称視点で、R2ボタンを掴む、アナログスティックを手の動きに対応させているあたりは同一性を高める事に一役買っている。 しかも、『HEAVY RAIN』みたいに入力が表示されるわけじゃないので、慣れてくるとより一体感が出てきた。 やってみて分かるのは、死ぬことそのものには必ずしも意味があるわけじゃないこと。 フィンチ家の多くは理不尽に死んでいく。 大事なのは体験の方。 死んでいくその人ごとに表現方法が違うんだよね。 最初に自分が猫に変身して小鳥を追いかけている時に、もう既にいままでと何かが違うと感じていたけど、それはまだ序の口。 現実世界で働きながら妄想の世界に生きている登場人物を、2つの異なるゲームを同時にやらせる事で表現する件なんかは感心するより他なかった。 メチャメチャ斬新! この斬新な体験に同一性の高さが効いてくるんだよ。 テキストを画面効果として使っているあたりも目新しかったな。 しかもそれが誘導にもなっているという。 一本道なんだけど、あんまりそれ意識しないで、素直にテキストについていくとずっぽりゲームにハマっていける。 変な時間稼ぎがないのもイイ。 みんな死んでいくんだけど、それでいて最後の最後は後味も悪くない。 これは文句なしで面白かった。 大事なのは死に至る経過を体験する事。 あーあーこのままいったら死んじゃうー!!という体験。 こんなに目新しい作品が生まれる余地がまだあったんだと、驚かざるを得ない。 |