FF9

人が創りしもの 2001_02_12

 

『FF9』をクリアし終えて、随分と日が経った。
もういい加減『FF9』の話は切り上げたいと思いつつも、書きたいことはまだ残っているのだ。
私が思う『FF9』の素晴らしさは序盤にあった。
とにかく苦しさがなかったのである。

RPGをやって何が苦しいって、立ち上げが苦しい。
いつも書いていることだが。
どうして苦しいのか?
そこを考えないと、『FF9』の素晴らしさは見えてこないのだろう。

で、考えてみることにする。
・・・
・・

すると、やっぱり人が創ったものだからかなあ、という風に思えてくる。

私達は自然物理の世界に生きている。
重力があったり、慣性があったりという世界に生きているわけである。
それは絶対であり、その中で生きられるように生まれてこのかた学習してきたのだ。

ところが、である。
ゲームの世界はそうではない。
人が創ったものだ。
だからどんな風にでも創れるのである。
それは単に入力デバイスとかゲームシステムのみではない。
全てが人の創りしものなのだ。

例えば、ゲーム中でひとの家の押入を漁って怒られるゲームと怒られないゲーム。
それはゲームデザイナーが決めたルールであり、プレイヤーはそれに従うしかない。
例えば、3D迷宮で行き止まりには高い確率で隠し部屋があるゲーム、なんていうのがある。
その事実に気付かなければそれまでだが、気付いてしまったら、行き止まりの度に壁を調べずにはいられないだろう。
あるいは、「人間」という定義をどうするのか?ゲーム中の人々にとって「善悪」とはなんなのか?というような概念のルールもある。
概念を捉えないとゲームに感情移入することは難しいだろう。
そういった全てはゲームデザイナーが決めたルールである。
ゲームの中にはそういうルールがいっぱいある。

ルールを体に入れていくときっていうのは、やはり苦しいものなのだ。
慣れてしまえばなんでもないことなのだが。
だからその苦しさを計算に入れて、苦しさに苦しさを重ねないようにする。
そういう心配りが欲しい。

『FF9』はそういう点で優れている。
序盤は物語の垂れ流しだ。
戦闘シーンは数えるほどしかなく、一回戦闘するたびにキャラはレベルアップしていく。
戦闘シーンがプレイヤーにとって苦痛である、ということを認識しているのだろう。
どうしてもアクセス待ちで長くなる戦闘シーンを極力減らそう、という意識が見て取れた。
苦しさを重ねないように、早いとこ先にルールを体に入れちゃえ!ということに違いない。
そのために多少プレイヤーの充実感を奪っても仕方がない。
その割り切りこそが『FF9』の素晴らしさだと思う。


<追記>

FFシリーズは、とにかくプレイヤーに優しく、という理念で進化していると感じている。
だが、如何せん「早い段階で壁をつくる」という意識に欠けてはいないだろうか?
壁をつくることでシステムを理解させる、という部分もあろうと思うのだが。
FF9だったらディスク2の終わり辺で一山欲しいなあ、と後から思った。
というか、私は強い敵が出てこないと、システムを理解せずどんどん先に進んでしまい、あとでえらい目に遭う。
自分が悪いのかな?


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