好きになれない

好きになれない 2007_01_15

 

このところXBOX360を起動させる事が多くなっている。
さすがに360を使い始めたら、もうPS2でプレイする気になれないのだ。
私の中でPS2は急速に色褪せてしまった。
プレイヤーの喜びを映像で担保するような種類のゲームは、どうしても劣化してしまうんだ。
PS2用のゲームは現在3連敗中である。(立ち上がらない)

しかし、だからといって360が好きかというと、やっぱりそうではないと感じている。
ゲームの作りがPCっぽいのだ。
コンシューマーのゲーム機らしくないのである。

私は半ば確信しているのだけど、コンシューマーの良いところはプレイヤーを完全に把握できるところである。
いまプレイヤーがどういう負荷に直面しているのか創り手が理解できなければ、素晴らしいゲームは生まれない。
もっと言えば、創り手はプレイヤーのイメージが固まらなければ、加える負荷を決定することすら出来ないはずである。

ところが、360はちょっと違う。
裏でOSが動いているらしく、一定の挙動をしていないように感じられるのだ。
ゲームってのは処理落ちしたって処理落ちすることがわかっていればそれを織り込んで創られるだけなのだが、処理落ちするかどうかが厳密にはわからない。
ゲームの種類によっては、ちょっとイヤな感じである。

それどころかもっと直接的な問題がある。
解像度がプレイヤーによって区々なのだ。
当然解像度が高ければ高いほど処理は重くなるわけで、プレイヤーが想定しづらくなる。

PCの世界ではこれはあまり問題にされておらず、創り手は大体のプレイヤー像と大体のハードウェア構成を想定してゲームを創る。
一方、プレイヤー側は快適に動かせる解像度やエフェクトを自分で選択してプレイする。
それでOKだと思われているのである、PCの世界では。
PCとコンシューマーでは文化が違うのだ。

360は一応コンシューマーの位置づけなので、本来ならば解像度によらず一定の動作をする必要がある。
このロジックでいくと、一番高い解像度の時にデザインを合わせて、解像度が低いときには逆に遅延を掛けてやらなければならない。
ところが、そうはなっていないんだな。
『ブルードラゴン』なんかやってると、解像度を低くした方が気持ち快適になる。
最後のほうの雑魚敵で鬱陶しいモーションのヤツがいて、高解像度でやってたらかなりストレスが溜まった。
あそこら辺、創り手側でプレイヤー像がブレていたんじゃないか。
たぶん、高い解像度の時でリミットを掛けていたら、モーションを少し簡略化したのではないか、という気がするな。

私はやっぱりキッチリと作って欲しいんだ、コンシューマーなら。
ハードウェアを抽象化してゲームを作りやすくします、とか言われても、全然嬉しくない。
ゲームの開発にも効率が求められる時代だけど、なんかイヤ。
私はどうも360が好きになれないのである。



<追加 2007_01_16>
そういえば、あれがイヤ。
ロード・セーブ時にデバイスを選択するために横から枠が伸びてくるヤツ。
OSが「おっとっと、デバイスにアクセスするには僕を通してもらわないとね」とか言ってみたいでムカツク。
だまっとれっちゅうねん。


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