任天堂系の情報HPに、レボリューションのゲーム画像が海外の雑誌に載ったという記事を見つけた。 早速私も見てみたところ、ちょっと心配になってきたのである。 この私の心配を説明するためには、このところ私が考えていた事を書いておく必要がある。 私は『ガラクテイル』について考えていた。 なんとかして嘘にならないように褒めることはできないかと。 このゲームについて考えていると、どうにもMCDの『SWITCH』が頭に浮かんでくるので、ここから展開していって、褒めるところまで到達したかった。 ところが、これは無理だったのだ。 『SWITCH』について説明すると話が長くなるので止めるけど、要するにあれはマウスゲーなんだな。 GUIとマウスに出会った人が発想するような作品なのである。(『SWITCH』には大容量を無理矢理使うというコンセプトもあるけど) 『SWITCH』から展開して、タッチスクリーンに特色を持つNDS用の『ガラクテイル』を褒めるところまでもっていく事はできない。 結局私は『ガラクテイル』を上手く褒める方法を見つけられなかった。 しかし、この思考の中で「じゃあ、マウスとタッチスクリーンの違いって何よ?」という問いを私は得ることが出来たのである。 私ははじめてNDSに触れたとき、タッチスクリーンってのはタブレットとのアナロジーで考えればいいんだろう、と思ったけど、それは間違っていた。 それは『アナザーコード 2つの記憶』をやったときに解ったのである。 ゲームにおいては常にゲームの中の事象をプレイヤーの操作に置き換えなければならない。 その為のルールがゲームとプレイヤーの間に挟まっているのだが、これを取り除く効果がタッチスクリーンにはあるのだ。 NDSがシームレスだ、ってのはそういうことなんだろう。 ただシームレスという言葉を使うとこの後の話につなげにくいので、ここでは「置き換えの距離が近い」と書くことにしたい。 例えば、『nintendogs』だったら、「手のアイコンをマウスで操ってモニタ上の子犬をグリグリやること」と「子犬をなでること」間の距離と、「タッチスクリーン上の子犬をペンでグリグリやること」と「子犬をなでること」間の距離は違うのか、という話である。 その問いへの答えは当然、「違う」だ。 マウスの相対的な変位を画面上に対応させる、という人為的なルールが置き換えの距離を作るのである。 逆から見れば、タッチスクリーンには置き換えの距離を近くする効果があるとも言えるだろう。 これはゲームのモチーフを決める段階である程度決まってしまうことで、既存のゲームをNDSに持ち込んだところであまり影響はないに違いない。 もう少し一般化してしまうと、新しいデバイスでゲームを考えるとき、この置き換えの距離が近くなるようなモチーフを選んでやれば、素晴らしいゲームが生まれる可能性がある、という話になるんじゃないか。 ここまでが前置きである。 私は咄嗟に危ない!!と思った。 そのHPで紹介されていた、銃を握った手首が表示されたゲーム画面を見たとき。 興味のある人はきっと知っていると思うけど、FPSにおける自分の手だけが映っているのだ。 これは置き換えの距離が非常に近いだろう。 レボリューションの背面ボタンと銃の引き金は位置関係やボタンを押す動作がかなり近そうなのだ。 持った感じは丁度DCのガンコンみたいな感覚なんじゃないか。 これはこのコントローラーが素晴らしいFPSを生み出す可能性を示唆しているにちがいない。 だからこそ、私は危険だと思ったのである。 危険だ、というのは、何か事件が起こった場合に叩かれる危険性が高いという意味だ。 置き換えの距離が近いということは、ゲームの中の出来事がよりリアルに感じられるだろう。 実際にどの程度人間に影響があるのかは分からないが、少なくともPSのコントローラーの○ボタンを押しているよりは危ない気がする。 いまですら叩かれていることを思えば、なおさら叩く材料にはなるということである。 せっかくここまでDSでゲームの新しいムーブメントを作ってきたのに叩かれるのは勿体ないじゃないか。 レボリューションに繋げていかないと。 ゲームを悪者にしたくない。 人様に「趣味はゲームです」って堂々と言える世の中にしたいだろう? 私は言えるけど、普通の人はなかなか言えないんだぜ。 思い切って、撃つ対象がエイリアンだろうが人間だろうが、銃が出てくるだけで18禁にするとか出来ないものか。 任天堂自身は一体どう考えているのか? レボリューションには「ゲームを家庭の悪者にしない」というコンセプトがあったはずだが。 FPS操作のスタンダードを確立したい、とか呑気なことを言っていると痛い目に遭わないとも限らない。 打てる手はすべて打っておきたいものである。 まあ、レボリューションがメジャーにならなければ、そんな心配もないわけだが・・・。 |