ゲームの難しさ(2) 〜なぜ難しいと感じるのか〜 2000_09_16

ゲームの難しさ(2) 〜なぜ難しいと感じるのか〜 2000_09_16

 

ゲームは難しくなった。
あるいは、難しいゲームに取り組めなくなってしまった。
そう嘆いてばかりいるような気がする。

しかし、そればっかりでも、やはりダメなんじゃないかとも思う。
ゲームの何を難しいと感じるのか?
どうすれば難しいと感じることなく、プレイさせることが出来るのか?
ゼルダシリーズのように、制作者が意図的に難しくしている場合は別として、何か出来ることがあるんじゃないだろうかと思って考えてみた。

実際私は、つい最近こんな経験をした。
『スーパーマグネティックニュウニュウ』をコンプリートするために、もう一回はじめから取り組んだときのことである。
あれっ?簡単じゃん!と感じたのだ。
こんなんだったら、昔のゲームの方がよっぽど難しかったじゃん!って。 以前は、「なんという意地悪なマップメイキングなんだ、これは。これ、ぜ〜ったいみんな出来ないぞ」と思いながらのプレイだったのに。

なぜ簡単に感じたかというと、おそらく脳味噌の中にこのゲームをプレイするための回路が出来上がっていたからだろうと思う。
最後までプレイするうち反復練習によって、素早く場合分けをしたり、反応したり、という回路が出来ていく、いわゆる「慣れ」という奴である。

脳味噌に回路を作るという観点から難しさを考えてみると、場合分けが複雑であったり、使うボタンが増えたりすると、乗算的に構成する回路は複雑になるだろう。
画像が3Dになることで、目から飛び込んでくる情報量は飛躍的に多くなる。
昔は方向キー+2個だったボタンが、いまは6〜8個あったりする。
それじゃあ、難しくなろうというものである。

では、なぜ画像が3Dになったり、使うボタンが増えたりするのだろうか?
それはやはり「慣れ」のせいだろう。
回路が出来てしまうと、刺激が足りなくなってくる。
つまり面白くなくなってしまうのだ。
そうした要請からゲームは複雑になってきたとは言えないだろうか?
私達は望んでゲームを難しくしてきたと。

そして、そこにこそ問題の根源がある。
既に脳に回路を持っている人間はより複雑なゲームを望むようになるが、そのゲームは、回路を持っていない人間には酷な難易度を持ってしまうのである。
その溝は海よりも深く、その壁は山よりも高い。
かくして、マニアと呼ばれるようなプレイヤーは絶対少数となり、骨のあるゲームは売れなくなり、先細っていく。
しかし、もし脳味噌の回路だけを問題にするのであれば、回避する方法はある。
いわゆる練習ステージと呼ばれるものを使えばある程度は回避出来るし、実際そうやってきた例は多い。

だが、もう普通の練習ステージではダメなところまで来ていると、私は感じている。
作り手の方から遊んでください、といわんばかりの手厚いサービスを与えてやらなければ。
練習ステージの合間に登場キャラのショートコントを入れるとか、オマケ要素が登場するとか、何か明らかなものを。
やってもやらなくてもいい、という位置づけだと私達は必要だと思っても、ついやらないことが多いのである。
なぜならば、私達にはもう難しいゲームをしなければならない理由がないからだ。
ここ何回か繰り返し書いているけど、「他のラクで楽しいもの」が世の中にはいっぱいあるのである。

ゲームの世界も努力しなくてはならない。
そうすることで、難易度の溝を埋めることが出来れば、たくさんのプレイヤーを獲得できる。
ゲームの素晴らしさを理解してもらえる機会を増やすことが出来る。
もう誰もがここを通っていく時代ではなくなってきたのだ、という認識に立ってゲームは創られるべきなのだ。


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