ゲームは難しくなった。 あるいは、難しいゲームに取り組めなくなってしまった。 そう嘆いてばかりいるような気がする。 しかし、そればっかりでも、やはりダメなんじゃないかとも思う。 ゲームの何を難しいと感じるのか? どうすれば難しいと感じることなく、プレイさせることが出来るのか? ゼルダシリーズのように、制作者が意図的に難しくしている場合は別として、何か出来ることがあるんじゃないだろうかと思って考えてみた。 実際私は、つい最近こんな経験をした。 『スーパーマグネティックニュウニュウ』をコンプリートするために、もう一回はじめから取り組んだときのことである。 あれっ?簡単じゃん!と感じたのだ。 こんなんだったら、昔のゲームの方がよっぽど難しかったじゃん!って。 以前は、「なんという意地悪なマップメイキングなんだ、これは。これ、ぜ〜ったいみんな出来ないぞ」と思いながらのプレイだったのに。 なぜ簡単に感じたかというと、おそらく脳味噌の中にこのゲームをプレイするための回路が出来上がっていたからだろうと思う。 最後までプレイするうち反復練習によって、素早く場合分けをしたり、反応したり、という回路が出来ていく、いわゆる「慣れ」という奴である。 脳味噌に回路を作るという観点から難しさを考えてみると、場合分けが複雑であったり、使うボタンが増えたりすると、乗算的に構成する回路は複雑になるだろう。 画像が3Dになることで、目から飛び込んでくる情報量は飛躍的に多くなる。 昔は方向キー+2個だったボタンが、いまは6〜8個あったりする。 それじゃあ、難しくなろうというものである。 では、なぜ画像が3Dになったり、使うボタンが増えたりするのだろうか? それはやはり「慣れ」のせいだろう。 回路が出来てしまうと、刺激が足りなくなってくる。 つまり面白くなくなってしまうのだ。 そうした要請からゲームは複雑になってきたとは言えないだろうか? 私達は望んでゲームを難しくしてきたと。 そして、そこにこそ問題の根源がある。 既に脳に回路を持っている人間はより複雑なゲームを望むようになるが、そのゲームは、回路を持っていない人間には酷な難易度を持ってしまうのである。 その溝は海よりも深く、その壁は山よりも高い。 かくして、マニアと呼ばれるようなプレイヤーは絶対少数となり、骨のあるゲームは売れなくなり、先細っていく。 しかし、もし脳味噌の回路だけを問題にするのであれば、回避する方法はある。 いわゆる練習ステージと呼ばれるものを使えばある程度は回避出来るし、実際そうやってきた例は多い。 だが、もう普通の練習ステージではダメなところまで来ていると、私は感じている。 作り手の方から遊んでください、といわんばかりの手厚いサービスを与えてやらなければ。 練習ステージの合間に登場キャラのショートコントを入れるとか、オマケ要素が登場するとか、何か明らかなものを。 やってもやらなくてもいい、という位置づけだと私達は必要だと思っても、ついやらないことが多いのである。 なぜならば、私達にはもう難しいゲームをしなければならない理由がないからだ。 ここ何回か繰り返し書いているけど、「他のラクで楽しいもの」が世の中にはいっぱいあるのである。 ゲームの世界も努力しなくてはならない。 そうすることで、難易度の溝を埋めることが出来れば、たくさんのプレイヤーを獲得できる。 ゲームの素晴らしさを理解してもらえる機会を増やすことが出来る。 もう誰もがここを通っていく時代ではなくなってきたのだ、という認識に立ってゲームは創られるべきなのだ。 |