LIMBO

喜び×寄与分 2011_01_04

 

私はよく「寄与分」という言葉を使う。
それは我々がゲームについて感じていることを説明するために必要な言葉だからである。
例えば、ゲーム機の世代が更新されて、美しいCGのゲームが溢れているのにゲームが面白く感じられない、なんて事態に我々は遭遇する。
単純に考えれば、美しい映像の方が喜びは増すはずなのに。
しかしながら、ここに寄与分という考え方を適用すれば、それは全く不思議なことではなくなる。
ゲームが細部まで描かれることにより、プレイヤー側でイメージを補完する必要がなくなって、得られる喜びに対するプレイヤーの寄与分が落ちた。
たとえ喜びが増加していても、喜び×寄与分で考えると、CGが綺麗になっても得をしていない場合が往々にしてあるのだ、といった具合に。

更にこの寄与分という考え方は広義のゲームについても適用可能であって、様々なシーンに於ける人間の心理を説明することもできる。
シューターがジャパニーズRPGをバカにするときだけじゃない。
小説好きな人が漫画をバカにしたり、漫画好きな人がアニメをバカにしたりするのにも、同様のロジックを適用可能だ。
また、脚本家やCGデザイナー、あるいはゲームクリエイターに至るまでが「将来は映画も撮ってみたいですね」なんて発言をする気分を説明することも出来るだろう。
もっといえば、寄与分が低いってことは、その分を誰かが負担しているわけで、ゲームや映画の制作費が高くなっていることの説明にもなる。
こう考えていけば、寄与分という考え方が非常に重要であることがご理解いただけるのではないか。

ところで、是非やってみたいと思っていたゲームがあった。
モノクロで描かれた見るからに雰囲気の良いゲーム。
評判も良い。
私はXBOX360の『LIMBO』を知らないワケにはいかないだろうと思ってはいた。
それでもいままでプレイしていなかったのは、XBOX360がなかったからである。
電源投入時のスピンナップで心臓が止まりそうだったので、3代目のXBOX360を私は売り払ってしまっていた。
先日ようやく新型を購入したので、今更ながらプレイ出来るようになったのだ。
さすがに4代目は心臓を止めるほどの騒音は出さない。
まあ、それはまた別の話だな。

話を『LIMBO』に戻すと、こいつはホントに褒めたいゲームなのである。
大体からして、モノクロだから自分の寄与分が高そうだと予想出来るのだが、それだけじゃない。
ストーリーの説明すらゲーム内では行わない。
Aボタンでジャンプ、Bボタンでアクション。
それだけ。
右へすすめという指示すらないが、とりあえず右に進んでいくしかないから右へ行く、というゲーム。
で、すぐ死ぬ。
それも嘘みたいに惨い死に方をする。
プレイし始めて、えっ?と思ったな、意表を突かれて。
一発で私はこのゲームの虜になってしまった。
試行錯誤しながらやっていくと、ゲームのルールが分かってくるし、何となく世界観みたいなものが自分の中に形成されていくのも分かってくる。
これは酷く寄与分の高い作品だな。
謎解きは難しく、特に後半非常に難しくて、解いたときはかなり喜びが大きいんだけど、その得られた喜びに対する寄与分が高い。
だから、すごく誇らしい。
他の人にも勧めたいって気分になるね。

XBOX360なのに、敢えてモノクロ2Dにする。(内部処理は3Dかもしれない)
ストーリーは語らない。
ルールも説明しない。
相当難しい。
普通はあり得ないような気もするんだが、寄与分という考え方を持ち込めば、こういうアプローチも当然あり得るだろうね。
実際に大成功しているゲームが目の前にあるんだから。
もちろんその成功の裏には、それを成功させるための別のロジックも存在していそうではあるが。


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