辻褄の合う話

辻褄の合う話 2005_12_28

 

先日『ソニックラッシュ』をやっていて、実はあんまりゲームしていないことに気がついた。
プレイヤーが自分で考えてソニックを動かしている時間は極めて短いのだ。
これは意外な発見であった。
ピューンと突っ走っているから、何となく充実したプレイのような気がしていたのだが。

そんな発見があってから少し時間の経った26日に記者発表があった。
NDSが史上最速500万台を達成した、という例のヤツのことである。
その中に『もっと脳を鍛える大人のDS』のCM展開の話もあったので、何とはなしにこのゲームの負荷について考えていたところ、ピンと来てしまった。
私が『ソニックラッシュ』で感じていたことと、これは辻褄が合う。

「脳トレ」(面倒だから略す。脳トレシリーズ全般の意)の研究には、よくゲームが引き合いに出される。
脳の活性度を測ってみると、ゲームしているときよりも、単純計算をしているときの方が遥かに高い活性度を示すという。
これは私たちの感覚で言うと、ちょっと不思議なことである。
ゲームしている時の方がより複雑なことをやっているような気がするのに。
ところが、よく考えてみると、これは納得のいく話なんだな。

ゲームは置き換えを行うことによって、負荷を小さくしつつ、置き換え元の達成感を得ることで喜びを大きくしている。
この、負荷を小さくしつつ達成したときの喜びを大きくする、というあたりがゲームの素晴らしいところなんじゃないか。
私たちはコントローラーをちょこっと動かすだけで、世界を救うことだって出来るのである。
私たちはゲームをしているとき、全力を尽くしてなどいない。

大体からして、従来型のゲームは通常30分〜1時間程度プレイヤーが連続してプレイしてくれることを前提としている。
プレイヤーに課す負荷の密度がどうしたって薄くなるに決まっているじゃないか。
単純計算を連続で30分やってください、と言われても出来るはずがない。

「脳トレ」がやろうとしていることは、まさしく狭義のゲーム。
私たちがやっているテレビゲームは狭義のゲームが含まれているものであって、同次元で考えられるはずがないじゃないか。
どうしても比べたいなら、ゲームの中の一部分の負荷を取り出して比べるべきである。

ゲームは負荷でありつつも、同時に娯楽なのだ。
だから私たちはわざわざお金を払ってプレイする。
脳の活性度が低くたって、別に構わないんだ。
「脳トレ」は「脳トレ」、ゲームはゲームさ。
まあ、「脳トレ」を楽しいと感じさせるように創った任天堂や川島教授の手腕は当然賞賛に値するんだろうけどね。



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