『押忍!闘え!応援団』が届く前から私は応援団について色々考えていた。 タイトルが私に考えろと訴えかけてくるのである。 もちろん考えるのは私なので、私の中にあるもので考えることになる。 私がかつて通っていた高校には応援団があった。 しかし、応援団員の頭数が足りないので、各クラスから一人ずつ応援を出す決まりになっていた。(夏だけ) 応援団に応援を出すのである。 大したレベルではないにせよ進学校なので、みんなものすごくイヤがる。 私もイヤだった。 結局くじ引きで人身御供を決定する場合が多い。 ところが、一年生で応援団に入るとそのまま居付いてしまう連中がいて、2年生からはくじ引きをせずに済むこともあるのである。 なんと有り難いことだろうか。 どうやら応援団というのは、何かしらの魅力を持っているらしい。 応援というのは本来ゲームのモチーフとしての資格を欠いている。 なぜならば、応援することが結果に直結はしないからである。 応援したって負けるときは負けるし、応援しなくたって勝つときは勝つ。 努力と結果に因果関係が存在しないものをゲームにすることは極めて困難である。 では、そもそもなぜ「応援」という行為が存在するのか。 そこに喜びがないならば応援などするはずがない。 応援が結果に直接反映されない以上、それは応援される側の事情ではあり得ず、応援する側の事情であるはずである。 これは私の考えに過ぎないのだが、応援が存在する理由、それは勝手に応援対象の喜びや悲しみに乗っかる事ができるからなんじゃないか。 例えば野球の試合に勝つにはそれ相当の努力が必要なはずであり、努力を払ったものにだけその勝つ喜び・負ける悔しさが与えられるはずである。 しかし不思議なことに、応援することによって、それを分けて貰える。 野球の練習をしなくても、それは分けて貰えるのである。 しかも応援することに努力すればその喜びは更に大きくなる。 人一倍大きな声を張り上げたり、真夏に学ランで応援したり、観衆を仕切ったりすることが喜びを大きくするんじゃないか。 そこら辺が応援団の魅力なのかな、と思うな。 この応援団の魅力をうまいことリズムゲームと組み合わせたのが、『押忍!闘え!応援団』なんじゃないかな。 応援する負荷をリズムゲームに置き換えてやる。 そうすると、喜びがドーンと増幅されるんだ。 難易度が低いうちは単なるリズムゲーだな、と思ったけど、難易度が上がってくると、それを超えた喜びが沸き上がってくるような感覚があった。 応援というものの性質上、応援団からゲームが導かれたんじゃなくて、リズムゲームから導き出されたんだとは思うけどね。 <余談 2005_08_02> 応援団について考えているうち、「ルパン」を思い出した。 「ルパン」というのは、私が高校一年生の時の応援団副団長のあだ名である。 本名は知らない。 京都の方の有名大学に進学したという噂は耳にしたことがある。 彼はただもみ上げが長いというだけの理由で私たちに「ルパン」と呼ばれていた。 ルパンは凄かった。 何が凄いってメチャメチャ美しかった。 言葉で表現することは極めて難しいのだが、彼の手の動きは本当に美しかったのである。 特に1の動作から2の動作へつなげる腕の動きが素晴らしかった。 方向を変えるときには必ず一端止まる。 それもピタッと。 どんなに速い動きでも決してブレたりしなかった。 彼は静と動を完全に支配していたな。 私が2年生になれば、当然彼は卒業しているわけで、「やっぱルパンがいねえとダメだよな」などとささやきあったものである。 いま思えば、彼は自分を律していたんだろう。 こういう応援をしようと自分に型を作ることが負荷になる。 ああいうのも応援の喜びを増幅させるのかもしれないな。 『押忍!闘え!応援団』とは全然関係のない話だが。 |