自分って、やっぱ文系なのかな?と思った。 いや、「DINO CRISIS」をクリアした感想。 「DINO CRISIS」の謎解きって、パズルとか暗号当てみたいなのばっかりで、なんだか知能検査されてる気分になった。 なんだか数学の問題解いていて、『向いてないんだよなあ』とか思っていた高校生の頃を思い出してしまう。 向いてないと思いながらも、なぜか理系に進んでしまった。 いろいろ理由はあるんだけど、最大の理由は当時『ブラックジャック』に影響されて医者になりたいと思っていたからかな。 医学部に進むほどの学力もなければ、途中で文転する勇気もなく、現在に至っている。 結局の所、「DINO CRISIS」というゲームは現実の世界を描いているという制約の中で描かれていて、突拍子もないイベントは作れなかったのかもしれない。 恐竜がこの世に登場する理由は考えられても、理不尽な言葉遊びをゲームの中に織り込む事は出来なかったのだろう。 「バイオハザード」等でアイディアが出尽くしている感もあり、制作者側の苦しさも感じられなくはない。 研究者のメモみたいな奴を使って、なぜこういう謎解きが用意してあるかをいちいち説明しているのは、ある種の言い訳とも取れる。 それに比べて、「SILENT HILL」は理不尽さを極めたゲームである。 不思議な閉空間を想定しているわけだから、何でもアリなのだ。 この理不尽さがいかにも文系、あるいは文学っぽい。 何故ドアを開けるのに、意味不明な壁の落書きからボタンを押す順番を推理しなければならないのか? そこにはなんの必然性もない。(部分的には必然性を持っているのだが、私の理解が及んでいないだけかも) しかし、それを考えることのなんと楽しいことか。 私は「SILENT HILL」を非常に高く買っているのだ。 相変わらず私はこの2つを比べて考えている。 「SILENT HILL」は面白いし、「DINO CRISIS」はつまんない、と結論づけたいと思っているわけだ。 しかし、そう極論すべきではないのかもしれないとも思う。 それは単に向き不向きの問題に過ぎないのかも。 「SILENT HILL」をプレイして、『なんじゃこれは?』と思う人がいてもおかしくはないのかな? <補足> 「SILENT HILL」を誉めすぎなんじゃないか?という気もするので、ちょっと悪い話も。 一回解くと、『新たなる恐怖へ』という題の付いた2周目に突入することが出来る。 しかし、私はこれをクリアしていない。 敵が異常に固くなって、倒しても部屋を移動すると復活するようになる。 もはや謎解きどころではなく、敵に気づかれないようにライトを消して、ゆっくりゆっくり歩くほかない。(弾薬の消費を抑えるため、一匹ずつ殴り倒す必要がある) 私はこのゲームにおける戦闘部分にはさほど興味を持っていないので、単に負荷が増した様にしか思えないのだ。 私はこのゲームを作った人はバランス感覚の優れた人だと思っていた。 プレイヤーにかける負荷と喜びを秤に掛けて制作したんだと思っていた。 だが、この2周目を見ると首を傾げたくなる。 2回目のプレイは、情報量(=喜び)が小さくなるのである。 必然、負荷は小さくならなければならない。 プレイヤーの慣れを計算に入れたとしても、秤のふれる方向が間違っていると思う。 |