ゼルダが終わった。 今この時期に「ゼルダが終わった」というからには、終わったのは『ゼルダの伝説〜風のタクト〜』の事である。 心の震えが止まらない。 卑怯なほどに素晴らしい作品だった。 「卑怯」といえば、オープニングからして卑怯で、オープニングデモ見るだけでなんで涙が出るのか? そんなことあり得ないよね、普通。 全く「ゼルダ」は毎度の事ながらズルいのである。 エンディングを向かえて私は、この心の震えは一体どういう事なんだろう?って思っていた。 というのも、この感動は「ゼルダ」が従来プレイヤーに与えてきたものとはちょっと違う。 従来型の「ゼルダ」のような達成感による感動だけではない。 ゲームが終わってしまうことの寂しさでもない。 これはストーリー上の感動も幾分か混じった感動である。 私は旅立つ主人公を見送りながら、確かにそれを感じていた。 それはどういう事かというと、一つにはゲームの表現力が増したということだろう。 CGは昔の比ではないし、容量が増加したことにより、ゲームでないことに労力を割けるようになった。(割かねばならなくなった、とも言えるが) そしてもう一つは、プレイする事への動機付けが必要になった、ということなんじゃないか。 いまどきのプレイヤーには、どうしてそれをしなければならないのかということをきちんと説明して、モチベーションを高めてもらわなければならない。 これはゲームの世界の流れである。 「ゼルダ」といえど、逆らうことはできない。 しかし、じゃあ『ゼルダの伝説〜風のタクト〜』に「ファイナルファンタジー」みたいな難しいテーマを織り込まねばならなかったのか、というと、全然そんなことはない。 だって、「ゼルダ」はプレイヤーにゲームを提供できるゲームだからね。 ストーリーはそんなに難しくなくてイイ。 変に哲学ぶらなくてイイ。 プレイヤーはプレイすることで考え、自分の世界を創る。 『ゼルダの伝説〜風のタクト〜』は、今時のゲームの流れに乗りながらも、やはり他のゲームとは全く違うところに位置しているのだ。 だから「ゼルダ」って素晴らしい! 『ゼルダの伝説〜風のタクト〜』って素晴らしい! そしてそれが故に、「ゼルダ」だけが声高らかに謳うことが出来るのである。 自分たちの未来は自分たちが切り開いていくのだ、と。 そこにはいささかの衒いもない。 |