これは卒業式なのか? 「ときめきの放課後」をプレイして、現代風にすると「ときメモ」はこういう感じになるのかな、とはじめは思った。 絵柄が洗練されているし、なにより負荷が小さい。 だが、次第にこれが最後の「ときメモ」なんじゃないか、という寂しさに襲われるようになった。 そして、終わりでいいじゃないか、これで終わりにしよう、ドラマシリーズはもういいよ、そう思った。(もっとも余計深みにはまる結果になってしまったが) 私はこのゲームがあまり売れていないという話を聞いて、なぜみんな卒業式に出席しないんだ、と苛立ちを覚えた。 しかし、きっとそれにはわけがあるはずだ。 それをずっと考えていた。 一つには、私たちが年をとったせいがあるだろう。 私には来年2月に結婚する友人がいるが、彼はサターン版「ときメモ」をプレイしていた段階では、よほど私よりときメモラーだった。 しかし、彼は決して「ときめきの放課後」をプレイしようとはしない。 もういい加減「ときメモ」から離れなければ、という意識が確かに感じられた。 これは彼一人のことではないはずだ。 多くのときメモラーは、就職、結婚、という人生の分岐点にさしかかったとき、その立場を捨ててしまうのだろう。 もう一つには、他に多くのギャルゲーが発売されるようになった、それもかなり高品質なものが頻繁に発売されるようになった、という事も挙げられるかもしれない。 ギャルゲーというものの本質は、情報をプレイヤーに断続的に与えるところにある、 しかもその情報はプレイする度に新しくならなければならない、私はそう考えている。 そういう意味で、多くのギャルゲーは良い線をいっているように思う。 もはや「ときメモ」は特別ではなくなってしまった、のかもしれない。 最後に、もうひとつ。 私はこの事を考えるために、今更のように、いくつかの「ときメモ」関連作品を試してみた。 「ときめきメモリアル対戦ぱずるだま」「ときめきメモリアルselection藤崎詩織」 「もっとときめきメモリアル」(2、4、5、8話)、CDアルバムなど。 この事というのは、いままであまりにもくだらない関連作品を出してきたせいで、プレイヤーに飽きられてしまった、という可能性のことです。 しかしながら、私は「ときメモ」に関してはもはや不能者であるらしく、これらの作品からなにかしらの傾向を読みとることは出来ませんでした。 私は「ときメモ」を批評するにはあまりにも、ときメモラーでありすぎる。 ただひとつ、一つだけ感じたことがあります。 それは「ときめきメモリアルselection藤崎詩織」の中に入っている、詩織ちゃんのビデオクリップの中に。 その映像の中で、詩織ちゃんは一個の人格を持った人間として描かれています。 レコーディングがうまくいかなくて、悩んだりしている。 私はそれを見たとき、何か危ういものを感じた。 私たちは、いつでも好きなときにゲームの世界に飛び込めるし、いつでも好きなときに戻ってこれなければいけないはず。 ゲームの世界が、私たちの世界に接近してきてはいけないのではないか? 追いかけられたら逃げるのが普通なのかもしれない、そう思ったのです。 私はこうして考えてきて、ある程度、売れなかったのもやむないのかも、と思えるようになりました。 しかしながらその反面、「ときメモ」の最後の守護者でありたい、という気持ちが自分の中に芽生えてきている事にも私は気づいています。 私は自分が、なるほどときメモラーである、と感じられるようになったは、ほんのつい最近であるということを、最後に書いておかなければなりません。 この気持ちの高まりが、他の方々との単に時間的なずれでしかないのかどうか私にはまだわからないのです。 <後日談 2001_08_03> この文章は途中から語調が変わっており、明らかにおかしいです。 しかし、この文章を書いていたときの自分がよく現れているので、そのままにしてあります。 |