エッセイ・四角い箱から

 
第22回 『手習い』
 


 先日、私の入っている「衣の会」の着物ショーで、三味線を弾いた。曲 は長唄の中から幾つかをつなぎ合わせたもので、最後は『さくらさくら』 になる。時間にして5分ほど。以前にお稽古した曲ばかりだし、楽譜は 暗記しているし、師匠と二人きりで弾くからごまかしはきかないとはい え、何とかなるだろうと思っていた。それほど上がり性でもない。中学高 校と合唱部で、何度か舞台に立っているし、習っていたギターの発表会 では、独奏もした。夏休みの自由課題の発表とやらを、全校生徒の前で したことだって。しかし、である。

 正直なところ、ボロボロだった。止まってしまったり、明らかに違う音を 出したりというわけではない。だが、着物の袖を挟んだまま右手を三味 線に乗せてしまったから、腕が滑ってばちが安定しない。スカばち(弦に ばちが上手く当たらず、音が出ないこと)をしたり、隣の糸を引っかけた り。それが気になって、弦を押さえている左手も怪しくなってくる。三味線 はギターと違ってフレットがないから、音程を自分で決めなければいけな い。それが怪しくなるということは、つまり三味線が“音痴”になってしまう ということだ。おまけに最後の『さくらさくら』皆が知っているから、間違え たり音がはずれたりすればすぐわかる。簡単な曲ほど難しい。

 今までお稽古場のおさらい会で弾いたことはあるが、これは仲間内し か居ないし、「間違いました、やり直します」なんて人も居る。そういうこと が許されないという意味では初めての舞台だったわけだ。そしてそれ は、私の中で納得のいかないものになった。考えてみると、「失敗しては いけない」などという場面に遭遇することは、運転免許の試験以来無い と言っていい。頭が真っ白になるほどではないにしろ、日常にはない緊 張したシーン。そこで頼りになるのは、繰り返し練習した“手の感触”だ。

 “手習い”というのは、何もお習字だけに限ったことではない。お茶でも お花でも三味線でも、まず手に習わせるのだ。精神などというものは、 完全に手が習ってからの、もっと上の段階に行ってからのことだ。緊張 しても、予想外のことが起こっても、正確に手が動くこと。これが一番大 切なのではないか。特に三味線は糸を押さえるポイントのことを“勘どこ ろ”というくらい不確実な楽器なのだから、何度でも練習して手に覚えさ せる以外ない。誰だったかスポーツ選手が言っていた。最後の土壇場 で自分を支えるのは「あれだけ練習したのだから大丈夫」という思いだ と。だが今回私はそれが出来なかった。

 たかだか素人の三味線演奏、そんなにムキなることはないと言われそ うだが、本業のまんがが“努力”や“練習”でどうにかなるものではないの で、一つくらい一生懸命精進して自分のものにしていく世界があってもい いのではないかと思っている。そうして得たものは、どんなものでもきっ と自信になるだろう。さしあたっては2月にあるおさらい会で、いい演奏 が出来るようにしっかり“手習い”するつもりである。

 
99年11月30日UP

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