エッセイ・四角い箱から

 
第18回 『懐かしい歌声』
 


 子供の頃よく童謡を聞いた。熱などを出し学校を休むと、母がレコードをかけてくれたの だ。その頃聞いたのは『可愛いさかなやさん』『花嫁人形』『絵日傘』『嬉しいひなまつり』な どである。歌っているのは児童合唱団や少女歌手、出てくる言葉は「ままごとあそび・あね さんごっこ・通りゃんせ」など、やはり子供の世界を描いたものだ。これらの歌がいつ作ら れたものかは知らないが、私が聞いていた頃でももうなくなっている世界も出てくる。「乳母 のお里・お嫁にいらしたねえさま」どこか地方の素封家で、乳母がいて、年の離れた姉がい る少女、そんな子供が主人公のようだ。

 一方小学校では、『故郷』『赤とんぼ』『紅葉』などという唱歌を習った。もちろん嫌いでは なかったが、意味を意識して歌っていたわけではない。『夏は来ぬ』のように現代語ではな いものもあったし、祖父に教えてもらった『箱根の山』などは、まるで呪文のような歌詞だっ た。今考えれば漢詩が元になっているのだから、小学生に理解できないのは当たり前なの だが。

 中学・高校・大学になると、グループサウンズだのフォークだのニューミュージックだのを 好きになって、いつの間にか童謡・唱歌を聞かなくなった。再びそれを耳するようになるの は、ここ2〜3年である。きっかけは多分、父が車の中でかけていた倍賞智恵子のカセット テープだと思う。童謡・唱歌とは少し違うが、『花』『わすれな草をあなたに』『雪の降る街を』 といった日本の歌が並んでいた。変に自分流にせず、素直に歌っている彼女の声に、改 めてそれらの歌詞の美しさを感じたのである。イントネーションに逆らわないメロディーも心 地よい。そこで、子供の頃聞いた懐かしい歌を再びと、CDを買ったのだ。

 ところで私には“田舎”がない。普通両親の実家のことをそう呼ぶのであろうが、父方の 祖父は共に住んでいたし、母方の祖父母は東京にいた。都会のことを“田舎”とは言うま い。それなのに童謡を聞いていると、有りもしない“田舎”を思い出す。『故郷』に出てくる澄 んだ川や緑濃い山、『おぼろ月夜』に出てくる菜の花畑、『夏は来ぬ』の歌う田植え。それど ころか、「お馬に乗ってお嫁に行ったお姉さま」だの、「子守をしている少女」だの、「お嬢様 の手を引くばあや」だの、いもしない人々の姿が見える。日本人がなくしてしまった美しい田 園風景、昔ながらの暮らしぶりを思い描くことができる。古い白黒映画のような世界。見た こともないそれらを懐かしいと感じるのは、遺伝子のどこかに生まれるよりもっと前の記憶 が組み込まれているからなのだろうか。

 生きている時間が長くなると、一つの単語を聞いてもそれと共にたくさんの言葉を思い浮 かべる。持っている記憶を総動員して、イメージを広げる。子供の頃にはただ一つの意味 にしかとれなかったのに。私の感じる懐かしさは、そういう記憶が築き上げた虚構の世界 への、いわば偽の郷愁だ。それでも、昔感じることのできなかった想いを感じられるように なったのは、悪いことではないだろう。何を見ても聞いても心が動かないよりは、ずっと。

 最近の音楽の教科書からは、童謡・唱歌が消えていってるらしい。『荒城の月』が載らなく なったと、ニュースで言っていた。代わって採用されるのが今風の歌であれば、その教科 書で育った子供達は大人になったときにそれらの歌を思い出すのだろうか?何十年も前 に設定された小学唱歌を、いつまでも歌い続けていなければならないことはない。それで も、すでに失われている古き良き日本の姿を、歌の中だけでもとどめておいて欲しいと思う のは、もう若くはない私の、ただのセンチメンタリズムだろうか。

 
99年4月12日UP

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