第15回 『我が師の恩』
 


 卒業シーズンである。証書を入れた筒と花を抱え、学生が街を歩く季節になった。学校嫌 いだった私には、卒業式で泣いた記憶はないが、この季節になると思い出す先生がいる。 もう授業が無くなった学期末に、心に残る話をしてくれたのだ。

 その人は、政治経済の教師だった。テストに教科書以外のところから問題を出すこと、学 科への苦手意識もあり、あまり親しみを持ってはいなかった。その先生が、最後の授業時 間に話してくれたのは、自分の自殺未遂のこと―。お父様が事業に失敗し、借金を負った という。質屋は元値の1割くらいでしか商品を引き受けてくれない、などとおもしろおかしく 話した後に、言ったのだ。「睡眠薬はね、飲み過ぎるともどしてしまって死ねないんだよ」 と。そこまでに至った直接の理由を話してくれたかどうかはもう覚えていないが、「だから、 死にたいなら量を間違わないように」と言いつつ、そんなことをしちゃいけないんだよと言外 に伝えたかったのだろう。その気持ちだけは、受け取った。

 もう一人は、失礼なことだが教科すら覚えていない。内容からすると化学のはずなのだ が。例えばこのところ話題になっている脳死や臓器移植は、医療の問題というだけでは片 づけられない。クローン人間、体外受精もそうだ。人間が、その領域以上の所に踏み込も うとするとき必要なのは哲学や神学だと、四半世紀以上前のあの頃、先生は教えてくれた のだ。当時はいまひとつピンとこなかったが、ここ何年かで神の領域への境界線が急速に 低くなっているのを見ると、改めて大切な言葉だったと納得する。

 それから卒業前ではなかったが、生物の実験の時に聞いた言葉も胸に残っている。解剖 でむき出しになった蛙の内臓を見ながら、みんなして「気持ち悪い」だのなんだのと言って いたときだった。「物には、機能美というものがあるんだ。内臓は、それぞれその働きにふ さわしい美しい形をしているのだよ」と。それは後に私の美意識の基(もとい)になった。美 術ではなく生物の時間に、それを得たのだ。

 そして最後にもう一人忘れられないのは、中学3年生の時の担任。数学を教える女性の 先生だった。それまで私は特に問題児でもなく、成績も悪くはなかったので、教師に注意さ れることはほとんどなかったのだが、ある時その先生に言われたのだ。「もう少しまわりを 引っ張っていくようにして」と。お世辞にもリーダーシップかあるとはいえない私への、それ はアドバイスだった。注意されたくせに、なぜか嬉しくなった。成績云々ではない、人間的な 成長を促すような言葉。それは生徒を一人の人間として見ているからに他ならない。そうい う教師に出会えたことが嬉しかった。だから、卒業しても長い間、年賀状を送り続けたもの だった。

 学校で受けた授業が役に立ったと感じたことはないが、こうして人生体験や、何かを考え るきっかけを話してくれた先生達に、感謝したい。ふとした折りに思い出し、自分一人の力 で生きてきたような勘違いを反省したりする。どうやら―"我が師の恩"とは、学校を出て長 い時間がたってからわかるもののようである。

 
99年3月10日UP

着物deサッカー