エッセイ・四角い箱から
 
第11回 『よろしかったですか』
 


 去年の10月に北海道を旅行したときのこと。とある店で食事をした後、皿を下げに来たウエイトレスが妙な言葉を使った。「お皿、お下げしてよろしかったですか?」一瞬私は何を言われたかわからない。皿はまだ目の前にあって、これからしようという行動について、彼女は過去形で聞いてきたのである。なぜ「よろしいですか?」ではないのだろう。疑問に思いながらも、その子の独特の言葉遣いだろうと考えた。

 しかし旅行中、その言い方に何度も遭遇、そこで今度は、北海道の方言だろうと結論を出した。それでなければ、今風の若者言葉だと。  ところが・・・である。先日用があって、朝日新聞社を訪ねたときのこと。指定された本館受付で、これから会う人の名前を告げると、受付嬢がこう言ったのだ。 「本日は、お約束でよろしかったですか?」 ―私は耳を疑った。天下の朝日新聞の受付嬢までが使っていたのだ。ということは、もしかしてこの言い方は、すでに市民権を得ているのだろうか?まわりの人に聞いてみたが、使っている人は居なくて、まずはほっとした。

 言葉は変わっていくものである。もしも今、平安時代の人がタイムスリップしてきてしゃべったとしても、どれだけ聞き取れるかわからない。例えば“管弦”は“くわんげん”と発音するのだと、何かで読んだことがある。“ら抜き言葉”にしても、地方によっては昔から使っていたというところもある。だから、現在の教科書に載っているような言葉だけが正しいとは、さらさら思っていない。だが、しかし、この違和感はぬぐえない。

 若者がよく使う短縮言葉は、携帯電話などの文字数を制限された通信の中から生まれたらしい。語尾を上げ疑問形でしゃべるのは、無意識のうちに相手に同意を求めているからだ。販売員が使う“お名前様”は、敬語をまともに話せない人間が考えた、新しい丁寧語なのだろう。言葉が変化するには、それなりの理由が存在するのだ。だからといって、それを簡単に認めたくはない。絶対的な正誤はなくとも、聞いて、または読んで、心地よいか不快かはあるのだから。

 ただし、こういう場所で意見を述べることは出来ても、いちいち他人をつかまえて訂正するほど、私はお節介ではない。人を非難する前に、自らを省みるのみ。言葉は正直だ。頻繁に耳にすると、影響される。その気になれば、ちゃんとした話し方が出来るのだと思っていても、いざというときに普段使っているものが出てきてしまう。何でもそうかも知れない。例えば姿勢、例えば表情、暮らしのすべて。意識して心を高く持っていないと、たちまちだらしなくなってしまう。人の妙な言葉遣いを耳にしたら、それは自分の言葉遣いを見直すいい機会としよう。きっと良い反面教師になるはず。―幸か不幸か、そのチャンスはたくさんあるのだから。

 
99年1月31日UP

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