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∞∞∞∞ いばらきのすがた・あゆみ ∞∞∞∞


【いばらきのすがた】
茨城県は、日本列島のほぼ中央を占める関東地方の北東に位置します。 東は太平洋にのぞみ、北は福島県、西は栃木県、南は利根川をはさんで 千葉県、埼玉県に接し、県都の水戸は首都東京から約100kmの距離に あります。県内には、霞ケ浦や北浦などの湖沼、延長180kmにおよぶ 海岸線、竜神山や菅生沼など34ヶ所の自然環境保全地域をはじめとす る豊かな自然が数多くあります。 また、茨城県沖合いは、寒流と暖流が出会うため魚の種類が多く、豊か な漁場にもなっています。気候は、夏と冬の気温の差が少なく、年間の 降雪日数も少ないところから、生活するには快適な風土となっています。 また、温帯と寒帯の分岐点にあたるため、植物や昆虫の分布には本県 を南限または北限としているものが多く、ハマナスやヒメハルゼミがその 代表的なものです。
極東・・・鹿島郡波崎町東端・・・・東経140°50’49”
極西・・・古河市西端田・・・・・・・・東経139°41’05”
極南・・・鹿島郡波崎町南端・・・・北緯 35° 44’28”
極北・・・北茨城市関本町北端・・北緯 36° 56’24”

【いばらきのあゆみ】
茨城のあけぼの
海の幸山の幸に恵まれた常総の地は早くから文化が開け、県内各地に残る 貝塚や古墳などが示すように、多くの人々が生活していました。その頃の 茨城は高(多賀)、久自(久慈)、仲(那珂)、茨城、新治、筑波の六国 に分かれていたと『常陸国風土記』には記されています。西暦645年、 大化の改新の際にこの六国は統合されて常陸国となります。 また全国で国分寺、国分尼寺が建立され文化は進み、鹿島神宮、静神社な どが信仰を集めました。
鎌倉・室町時代の茨城
西暦1192年、源頼朝が鎌倉に幕府を開きね武士の時代が幕開けします。 常陸の守護職には八田知家が任ぜられ、筑波山麓に小田城を構えました。 この頃、越後に流されていた親鸞が稲田に来て、浄土真宗を唱え「教行信証」 を著したので稲田は浄土真宗発祥の地となりました。 鎌倉幕府滅亡後、60年にわたる南北朝の争乱が始まりますが、茨城では 平定後も戦乱が続き、有力な武士達のほとんどが没落していきました。
江戸時代の茨城
徳川家康が天下をとるとそれまでの勢力は一掃され、家康の第十一子の頼 房が水戸城主、第一代目の水戸藩主となります。これは茨城が江戸幕府の 重要な外部地域であったことを示しています。文化は宗教文化から儒教文 化へと変わります。二代藩主徳川光圀は学問を好み、彰孝館を開き全国か ら学者を招いて「大日本史」を編纂します。また、九代藩主斉昭が弘道館を 創立し、当時では最新の医学や天文学を学べる場としました。
茨城県の誕生
西暦1867年の大政奉還により武家政権は終わり、明治維新となります。 明治二年の版籍奉還により各藩主は知藩事に任命され、明治四年には廃藩 置県が行われ、はじめて「茨城県」という名称が生まれます。この時代の茨城 県は現在の県域と異なり、その後の数回にわたる廃合によって明治八年、 ほぼ現在の県域になりました。明治以降の茨城の発展はめざましく、鉄道 の開設や鉱・工業の発達が大きな要因となっています。また、教育・文化 面でも学制が定められた明治五年以降、各学校が開校し文化の向上にあたる とともに、文学では、長塚節、横瀬夜雨、野口雨情、美術界では横山大観、 板谷波山などが優れた作品をのこしています。

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