五章『桶狭間の合戦』
永禄元年〜二年頃に掛けて、駿河の今川義元が、上洛する準備を行っているとの噂が、信長の耳へも達していたであろう。今川方はその一貫として、尾張国内で織田方の武将の寝返りを謀っていた。そんな中で一つの話が残されている。

この頃の鳴海城を守備していたのは、織田方の武将である山口義継という者であった。この山口義継は今川からの誘降の使者に従い、織田家に見切りをつけて今川方へ奔ったのである。その情報を聞き入れた信長は、これを逆手にとり間者を駿府へ向かわせ、流言を放った。

山口義継は今川へ偽って寝返ったのであり、本心は織田家に繋がっているとの事である。それを鵜呑みにした今川義元は山口義継を許せず、駿府へ呼びつけた際に討ち取ってしまったのであった。この様な話は「信長公記」の他に「甲陽軍艦」にもみられる記述である。

さて今川義元が兵を西へ進めたのは、永禄三年の五月一〇日頃だったと言われている。信長に田楽狭間で討たれる九日前という事になるでしょうか。

実際に今川義元自身が本隊を率いて駿府から出陣したのは、それから二日後の一二日頃であった。一三日には掛川城へ、一四日は曳馬城、一五日は吉田城、一六日は岡崎城へ入城している。そして一七日知立に本陣を構え、一八日には沓掛城へ入城した。

こうした情報は逐一、清洲城にいる織田信長の元へもたらされたことであろう。信長はあらかじめ尾張への進入路を阻むようにして、鷲津、丸根、善照寺の各砦に兵を入れていた。その数はそれぞれ数百ずつであったであろうから、今川軍の総兵力から考えれば、微々たるものである。

織田信長は清洲城にいて、一向に動く気配を見せなかった。今川勢を籠城で迎え討つのか、それとも城からうってでるのかも決せることも無く、時間ばかりがすぎていった。

そして永禄三(1560)年五月一八日の夜、突然出陣支度を始めたのである。湯漬けを食らい、それから「人間五十年〜」と敦盛を舞ったと言われている。舞が終わるや近臣の者のみを引き連れ出陣した。

あわてふためいたのは家臣等であった。この主君の予想外の行動にあたふたしながらも準備を整え、先に城を疾駆していった主君信長を追ったのであった。

そして一九日の明け方、熱田神宮に集合した織田勢は総勢二千になっていた。信長はここで勝利祈願をしたと言われている。

ちょうどその頃、今川勢は一斉に織田方の砦に対して、総攻撃を開始した。丸根砦を松平元康こと後の徳川家康が攻め、これを陥落させている。ほぼ同時に鷲津砦も今川方の手により落ち等のであった。その報を信長は耳にしながらも、全軍を率いて今川義元の本陣を目指したのであった。

今川義元は田楽狭間でもって軍を小休止させていた。ここで義元は前線からの吉報を次々と受けていた。織田方の鷲巣砦、根津砦の陥落などである。

だからといって今川軍の士気がゆるんでいたわけではない。警戒は行われていた。織田信長が率いる兵が今川軍本隊に近づいた時、両軍を豪雨が襲った。この機を逃すこは無く信長は全軍を義元本隊に向けて突撃を敢行。今川軍は突然の雨に気をとられ、織田軍が間近まで迫ってくるまで気がつくことはなかった。この時点でもって織田方が有利である。

突然現れた目の前の敵軍に対して、今川軍の兵は混乱し、その横を総大将である今川義元を求め織田軍が疾駆した。義元に対して一番槍をつけたのが、服部小平太という者であった。これに続いた毛利伸介が今川義元の首を獲った。これで今川軍は総崩れとなり、織田信長は東からの危機を脱したことになる。


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