四章『兄弟』
織田信行。信長からすれば同じ父と母を持つ実弟である。

生年は不明であるが、信長とはそれほど年は離れていなかったと思われる。

兄である信長は周りからは「うつけ」呼ばわりされていた。それに対して弟の信行は、兄を反面教師にでもしたかの様な態度から、織田の家臣らはもちろんだが、衆目からの評判も良かった。

父の信秀の死後、信行は兄の信長より末盛城を与えられていた。そして実母の土田御前とともに暮らしていのであった。この時点で織田家の当主は織田信長であり、兄弟という間であっても信行は、信長からすれば家臣の一人である。

その信行であるが弘治二年、織田家宿老である林秀貞および柴田勝家等の強力な後押しを得て信長に背いたのである。そして尾張稲生原という地で両軍が衝突した。

世に言う「稲生の戦い」である。

織田信行が率いる軍勢は柴田や林など宿老を含め、総勢が七〇〇〇ほどであった。それに対し信長が率いる兵はわずかに一〇〇〇ほどではなかったと言われている。しかし信長は積極的に軍勢の先頭に踊り出て、兵を叱咤しながら指揮を執っていた。まずは柴田勝家勢を打ち負かし、続いて林勢をも退却させる事に成功し、ついには総大将である織田信行勢も退いた。

信長の大勝利である。

信行はそのまま末盛城へ退き、母である土田御前を介して、信長に対して詫びを入れてひとまずは一命は許された。この一戦によって「織田信長」という名が織田家内部での評判があがったことは想像できることであろう。一時期は信行方についていた家臣たちも信長方へ接近しはじめたのもこれ以降である。

翌弘治三年には、信長という人物が名実共に織田家の旗頭となることを決定付けるとも言える出来事があった。

前年には信行を擁立し、稲生において槍を交えた柴田勝家が、清洲城のに信長の元へ密告してきたのでる。末盛の信行が再度、兵を挙げる計画をしているということであった。

これを聞いた信長は、何も語らずにその日から清洲城の一室に籠もってしまった。そして城下には信長が急の病で倒れたという風説がどこからともなく流れててきた。

やがて信長急病という知らせは、末盛城の信行や母土田御前も知るところとなった。信長が不治の病に伏せっており、明日をもしれず命との事。信行は柴田勝家の勧めもあり、兄信長を見舞うという事で清洲城へ向かった。

清洲城で信長の寝室へ通された時、信行の目の前に横たわっていたのは、病に冒された信長では無かった。信行は兄の謀略に掛けられたのである。そしてその身は、生きて清洲城から出る事は無かった。

実の弟である信行を断腸の思いでもって謀略により殺害。そして織田家中での反乱は治まった。しかしまだ尾張国内は、四面敵ばかりの状態でる。

信長は永禄元(1558)年、今川方の武将であった松平家次の籠もる尾張品野城を攻めた。しかし城を奪うどころか、逆に奇襲を受け多数の戦死者を出し退却した。

同じ年の五月には尾張岩倉城主である織田信賢が、美濃の斎藤義龍と結び、信長に対して正面切って対抗してきたのであった。

さらに七月には浮野において織田信賢率いる軍勢と衝突。戦は信長軍が当時の新兵器でもあった弓や鉄砲を駆使。さらに家臣等の奮闘もあって圧勝を得た。

後日、清洲城にて首実検を行ったところ、信長率いる織田軍は一〇〇〇余りの敵兵の首級を挙げていたと言われている。

そして永禄二(1559)年の正月早々に、織田信賢の本拠地である岩倉城に対して手を付けはじめた。まずはじめに城下に火を放ち、さらに城の四方を柵で二重三重に囲んだ。この攻城戦の最中に信長は、わずかな供を連れて上洛を果たすという活発な動きが見られる。

そして当時の将軍である足利義輝に謁見。これが二月二日であった。この謁見した目的は定かでは無い。しかし状況から読み据えると、尾張一国の統一が目前に迫っており、それに伴い今後の尾張を信長の統治下として将軍の認可を求めていたと思われる。

いくら戦国の世だとて、名目だけでも武士の頭領である将軍の権力は大きい。さらに武力も権力も備えていない朝廷であっても、官位という武器でもって世の大小名たちから敬われていた。

将軍からの認可は、大儀名分にするのに有効な手だてであった。

三月には尾張へ帰国し、岩倉城を攻め落とし、遂に名実共に織田信長により、尾張一国は統一された事になる。
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