二章『家督相続』
天文二一(1552)年三月三日この日、織田信秀がこの世を去った。ちなみに葬儀は曹洞宗万松寺にて営まれた。ここで織田信長にとって、後世まで語られることと成るエピソードがある。

父信秀の葬儀へ信長は遅れてやってきた。居並ぶ織田家の親族、家臣などはもちろん、信長の側近等も遅参してくる主人に対して待ちこがれていたのである。そしてその場に現れた姿を見て居並ぶ人々は目を奪われた。

髪は茶筅に結び、着流しの姿。さらに腰には瓢箪をぶらさげ・・・といったよく目にする様な出で立ちであったと言われている。さらに奇抜な姿で現れただけではなく、抹香をつかみ、手にとったかと思うとそれを投げつける様子は、あまりにもかぶき者であった。この行為は葬儀に出席していた人々にとって、信長の印象を一層悪くさせる行動の一つになったであろう。

「あの大うつけめ」と織田家の宿老等は心で思い、ある者は口に出して、そして織田家の行く末に不安を覚える者も少なくは無かったはずだ。この時、信長は一九歳の若者であった。

それに対して信長の実弟である勘十郎信行は、折り目高なる肩衣に袴をまとった正装で出席していたという。言ってみれば父の葬儀へ出席するのに真っ当な姿であった。この二人を比べ、「勘十郎信行をもって織田家の家督を継がせよう」という者もいた。

ちなみにこの信長の奇行であるが、父親である信秀に対する愛情表現であったとか、尾張国内において織田家に対する警戒心を解かせる為の演出であったとも言われている。幼少の頃より母親は弟に付きっきりであり、どちらかというと信長自身は父に構っていただく事で、その存在を示していたのであろう。さらに尾張一円を納めていた織田信秀の死により、その地位が誰にでも届く所へやって来たのだ。その嫡男の信長さえ抹殺すれば、それを手に入れられる、と考える者も中には居たはずである。

しかし結果として織田家の家督は信長が継いだ。那古野城をそのまま信長が居城として、弟の信行には柴田勝家や林秀貞といった織田家の筆頭家老を付け、末盛の城を与えたのである。

そして織田信秀の死後、「時は今」とばかりに、尾張国内で勢力図が代わろうとしていた。まずは鳴海城主の山口教継、教吉父子である。信長が織田の家督を継ぐと駿河の今川方に寝返ったのであった。さらに今川氏の後援を受ける形で軍勢を尾張領深くおしすすめてきた。信長は一〇〇〇にも満たない軍勢を率いて出陣。赤塚という地にて山口軍一五〇〇と対峙する。この戦は結局、勝敗はつかずに小競り合いのみでもって両軍供に兵を退いた。

また清洲勢もこれに乗じて動きを表した。清洲城は尾張守護の斯波氏の居城であり、守護代織田信友もここを居城としていた。しかしその実権は守護の斯波氏でも、織田信友でも無かった。それは信友の家老であった坂井大膳が握っていたのである。

その年の八月には坂井大膳が自ら、信長方の城であった松葉、深田の両城を攻め取った。これに対して信長の行動は迅速であった。翌日には叔父である守山城主織田信光の援軍を加えて、萱津の原において坂井大膳率いる清洲勢と合戦におよんだ。信長は清洲方に大損害を与える勝利を収め、松葉、深田の両城をも回復した。

この勝利によって信長の武勇が尾張中に広まったと言われている。これから信長による尾張統一への道がはじまった。

信長は父信秀の死後、敵対する勢力を打ち破り、尾張一国の平定に向かって突き進んでいた。

しかし全てが順調に進んでいたわけでは無かった。天文二十二年、幼少の頃より傅役として信長の傍についていた平手政秀が腹を切り諌死したのである。これには様々な説が残っている。

織田信長の「うつけぶり」に対して死をもって諫めたという話は有名であろう。他にも平手政秀の嫡男である五郎右衛門が名馬を巡って主君でもある信長と争い事を起こし、織田家と平手家の間が不和になるのを怖れ、政秀が死をもって責任を果たしたなどという話も後世に語られている。

どちらであったとしても、信長が衝撃を受けたのは事実であろう。平手政秀の死を悼んで尾張国内に「政秀寺」を建立し菩提を弔った。余談ではあるが、信長と美濃斎藤家の息女(濃姫)との婚姻は、この平手政秀の助力によるものであった。

さて天文二十二年には信長にとってもう一つ大きな出来事があった。蝮と異名を持つ美濃の斎藤道三との会見である。

斎藤道三は隣国の織田家当主であり、自分の娘婿である織田信長という人物に興味があったらしく、前年からこの会見の実現を度々信長の元へ持ちかけていたらしい。道三の本意は定かではないが、可愛い一人娘の婿の姿を一目でも会ってみたかったのか。それとも「大うつけ」という評判の信長に対し興味本意であったのか。それとも我が身を脅かすような存在なのかどうか、自分の眼力でもって確かめたくなったのであろうか。

理由はともかくとして、尾張と美濃の大名同士の会見が、この天文二二年に実現したのであった。世に言われている「正徳寺会見」である。

ここでは簡単に触れておくが、場所は尾張中島郡というところにある正徳寺。この会見前に斎藤道三は織田信長という人物を見るために、信長の一行が通るであろう街道沿いのあばら屋に潜み、一行が通り過ぎるの待ち受けていたと言われている。

道三は織田家の行列を目にした。まず常識から外れた長さの槍を持った槍足軽。それに続いていたのが当時は物珍しかった種子島銃を担いだ鉄砲足軽であった。数挺程度であるなら斎藤家でもあっただろうが、鉄砲だけで部隊を編成してしまう織田家の鉄砲の数には目を見張ったことであろう。

そしてもっとも驚いたのが、その行列の中心を行く馬上の信長の格好であった。髪は茶筅で、湯帷子を着用し、腰には瓢箪をぶら下げた噂通りのスタイル。

これを見た道三は落胆したという。大うつけという噂通りの格好であったからである。気乗りしないまま、会見場である正徳寺へと歩み戻った。

さて会見場の正徳寺。そこで斎藤道三は約束の刻限よりも半刻ほども、婿の信長に待たされる事になる。あのうつけに待たされ道三はもとより、側近らもしびれを切らしはじめていた。そんな頃ありになって信長は姿を道三をはじめとした斎藤家中の者の前に現した。

先ほどとは別人とも思えるその姿に、またまた驚かされる道三。こんどの信長はその会見に相応しい正装をしていたのである。ここでお互いの国情を語り合い、お互いに危難の際には助け合おうという誓約をしたと言われている。

また会見後、斎藤道三は近臣の者に対して、やがて子息は信長の前にひれ伏し、美濃は信長の領国となるだろう予言したとか。
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