一章『信長誕生』
織田信長が生まれたのは天文三年、西暦に換算し直すと1534年となる。

その当時の日本はどの様な情勢だったのであろうか。当時の中央政府として存在していたのは室町幕府。しかし政権として足利将軍は存在していたけれど、その力は衰えており天文年間の頃は名ばかりであった。

余談ではあるが、そもそも足利政権が墜落したのには様々な原因がある。その一つには応仁の大乱を引き起こしてしまい、その結果として日本国中が騒乱が発生。京を中心とした畿内でも混乱が生じ、それを鎮圧するほどの実力を足利将軍家には残っていなかった。将軍家だけでは無く、細川家や山名家をはじめとした多くの守護大名にも言えることで、大乱で疲弊しきってしまったのである。やがて独自に力を持つモノが出現し、近隣諸侯を内平らげ勢力を拡大させ、のちに戦国大名と成って行くのであった。

室町幕府の時代、信長の生まれた尾張の国は、守護として斯波氏が統治していた。しかし守護といっても名ばかりであり、応仁の大乱後はその権威も失墜してしまい、実際には守護代が守護の代わりにその土地を治めていたのである。尾張の守護代は織田家である。その織田家も二家に分割されており、それぞれの家名の元で尾張一国を統治していた。

その二つの織田家。それは岩倉城を本城として上四郡を支配していた織田信安と、清洲城を本城として下四郡を治めていた織田達勝である。

さて信長はどちらの系統だったのであろうか?信長の父である織田信秀は、下四郡を支配していた織田達勝の重臣の一人であった。つまり織田信長の出自は守護大名に仕える重臣へ仕えた家となる。つまり家臣の家臣。そういった立場の家であった。そうした中で信秀の力が一人抜きん出ていたのは、武将としての能力ももちろんであるが、治める地に利があったともいえるだろう。

信秀は尾張の古渡城を本拠としていた。このあたりは古来より交通の要所であり、とくに伊勢方面との交流が盛んであり、主に海運業でもって街の経済が潤っていた。その経済力でもって信秀は強大な力を持ち、やがて主筋であった織田達勝の力を圧倒し、下四郡を統治するまでの力を得たのである。

織田信長が信秀の子として誕生したのは、そんな時代である。

信長は幼名を吉法師、またの名を三郎(異母兄が二人いた為)と称していた。そして傅役として、織田家宿老の林秀貞、平手政秀の両名等がつけられ那古野城にて養育された。

信長は幼少時に乳母の乳首を噛みきったというエピソードが良く語られている。何人か乳母を変えていたが、どうも落ち着かなかった様だ。そして池田恒利の室であった養徳院夫人が乳母になった途端に、おとなしく乳を飲むようになったといわれている。ちなみにこの養徳院の息子が後年の池田恒興であり、信長とは乳兄弟ということになる。

そんな信長が元服したのは一三歳になった天文一五年の頃である。この時は普段の生活を営んでいる那古野城では無く、父である織田信秀の居城、古渡城にて元服が執り行われた。この時に吉法師という名を「三郎信長」へ改めた。この「信」という文字には、天下を号令するのに相応しいということで、沢彦和尚が付けたとか。これは眉唾物の様であり、おそらくは後世の作り話だろう。

織田信長は元服した翌年の天文一六(1547)年に、三河の吉良大浜攻めにおいて初陣を飾っている。初陣は武家の子息にとって、重要な儀式の一つでもあり、この戦でもって負けることは許されないのである。大名の子であればなおさらのことである。

初陣であっても織田軍の総指揮官は、織田家の子息である信長である。一般に大名の子息の初陣の際に、実際に戦の采配はその後見人が行うことが多いであろう。この吉良大浜攻めで信長の後見を務めたのは、傅役の一人である平手政秀であった。

この吉良大浜城とは、尾張と三河両国の国境付近に位置しており、西に勢力を拡大し続ける駿河今川氏の前線拠点であった。

信長は、紅筋の頭巾をかぶり、鎧を着せた馬に乗り、馬乗りの羽織を着用していたらしい。はじめは軍隊同士の衝突などは行われずの、吉良大浜城下の所々へ放火してまわり、引き上げたといわれている。よって命を奪われる様なリスクはかなり低かったことと思われる。

さて、この頃の信長の日常生活はどの様であったのだろうか。言い伝えでは朝と夕には欠かさず、城下をにて馬を走らせていたとか。城下の同世代の少年等を集めての模擬合戦を行い、夏の暑い時期には付近の川にて水泳も嗜んでいた様である。他に弓や鉄砲などの武芸、さらに鷹狩りに興味を示したはじめたのもこの時期でもあった。

さきほどちょっと触れた模擬合戦。この最中で槍は長い方が有利である事を見いだし、当時の平均的な槍(およそ二間半)よりも若干長い、三間ないしは三間半の槍を考案したと言われている。長い方が有利なのは当たり前に見える。しかし多くの武将は扱いやすさという観点から、あまりに長い槍を実戦で使うことはしなかった。

個人同士での戦いでは確かに扱い易い方がよいであろう。しかし信長はこの時点ですでに、軍団同士の集団戦の戦法を描いていたと考えればまさに偉才である。

この頃の格好は以下の様であった。輸帷子を着用しその袖を外し、半袴、腰には七〜八の瓢箪、火打ち袋をぶら下げ、髪は茶筅のように結び、熨斗付の太刀を差して歩き回るという出で立ちであった。また瓜や柿、餅なども食べながら城下を歩いていたと言われている。よくドラマなどで織田信長の少年期として描写される格好である。この姿で子分を引き連れて城下を歩くのを目にした人々は、「うつけの殿様」などと噂しあっていたとか。今で言うところの反抗期であったのかもしれない。勝ち気な信長は大人達の意見を全くきこうともしなかった。

そしてこの頃、美濃の斎藤家から嫁を娶ったのである。蝮と噂された斎藤道三の娘である。この帰蝶という名の姫は、信長との間に子をもうけたという史料は残っていない。

また、後に江戸幕府の創始者となる、徳川家康(当時は松平竹千代)が織田家に人質となっていたのはこの時期であろう。織田家から送り返されるのは天文一八(1549)年である。三河の安祥城が今川家の太源崇孚雪斎に攻められ、信長の兄である織田信広が今川家に捕らわれの身となる。この時、織田と今川の両家にて捕虜の交換が行われ、織田信広が織田家に戻り、そして徳川家康(当時は竹千代)が今川家の元へ送られた。

この様な少年時代を過ごしていた、信長の元に寝耳に水の知らせが届けられた。父親の織田信秀が流行病い(卒中とも言われているが)より急死したという。織田家当主の信秀亡き後、家督を継ぐのは嫡男である信長のはずだった。しかし日常の振る舞いから信長を認めようとしない者もあり、中には弟である勘十郎信行を推す宿老等もいた。
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