山内一豊編



織田信長に仕えていた頃の話である。

ある日、城下へ奥州から馬売りが来ていた。その中でもとびっきり上等な馬が一頭、道行く人の足をとめ目を奪うほどの魅力を発していた。それはたちまち城下でも噂にのぼり、主である織田信長の耳にも達するほどであった。

一豊も馬に見とれ惚れ込んだ一人である。

しかしその馬の代金は一〇両。二〇〇石の一豊ではとても購入できるものでは無く、そのまま家路についた。夜になっても昼に目にした馬の事が頭から離れず、妻の千代にそれを打ち明けたのである。

すると千代は何も言わずに一〇両を夫の一豊に差し出したと言われている。実は嫁入り前に夫の危難を救う為という名目で、一〇両を親から渡されていたのでした。

早速、翌日には馬を購入したのでした。それから程なく、合戦前の馬揃えがあったそうです。その場で一豊とその馬は人の目を引きつけ、さらに主君の信長も、身分不相応ながらその名馬を養う心がけに関心したとか。

一豊が出世の糸口をつかんだ時であり,内助の功の代名詞として妻の千代を語る時によく使われる話です。



一城と一国

遠州掛川城主であった一豊。慶長五(1600)年のことである。

会津にて上杉景勝が不穏な動きあるとみた徳川家康は,豊臣家大老として上杉征伐のために兵を挙げた。それに一豊は従軍し,会津の手前である下野の小山でのこと。世に言う「小山会議」。

一豊はじめ諸将は家康の陣に招集された。そこで諸将が耳にしたことは,上方において石田三成が挙兵したという知らせであった。それも徳川討伐という大義名分をもってである。

一豊をはじめとして家康に従軍してきた将の大半は,旧豊臣方であるどちらかといえば家康よりも,豊臣秀吉恩顧の大名である。

しかし福島正則はじめ諸将は家康に味方し,三成を返り討ちにすると息巻いた。そこで一豊がとった行動は,自分の居城である掛川を家康に献上し,そこを自由につかってくれというものである。

掛川城は東海道の道筋にいちしており,上方へ向かう時,ここを通る必要があった。また旧年,豊臣秀吉は関東の徳川家康を警戒してか,東海道の要所には信頼の置ける豊臣恩顧の大名等を配置していたのであった。これを聞いた他の諸将も,一豊に続けとばかりに城を差し出したのである。

この徳川家康と石田三成は,関ヶ原で決戦を行い,家康が勝利を納めたのは周知の事実。しかし東海道という要所の城が家康のモノとなったので,徳川軍は危険にさらされることなく軍を進められた。関ヶ原ではそれほど功の無かった山内一豊だが,戦後は土佐一国を賜っている。

これは真っ先に自分の城を差し出したことによる恩賞であろう。

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