■新兵器「鉄砲」のはなし

日本に鉄砲が伝わったのは歴史の教科書にも記載されている通り、天文一二年(1543)のこと。大隅の国は種子島に、ポルトガル船が漂着し、その際に日本人の手に渡ったとい事になっている。ちなみに漂着した船は中国船であり、実態は倭寇(ようは当時の海賊である)であったといわれている。

ポルトガル人から譲り受けた鉄砲は二丁。それを当時の種子島領主であった種子島時堯の命令により、およそ一年掛けて純国産の鉄砲が誕生したのであった。

ちなみに当時、鉄砲の事を「種子島」という名称で呼ばれていた。それは伝来した種子島という地名の他に、最初の国産鉄砲が作られた地名からであろう。また鳥や獣を狩る道具として用いられた事から「鳥獣筒」とも呼ばれていたと読んだ記憶がある。

それから数年の時を経て、日本最大の貿易都市「堺」をはじめとして近江の「国友」や、紀伊の「根来」などでも鉄砲の量産がはじめられた

当然、当時の鉄砲作りは全てが手作業である。はじめは刀鍛冶などが見様見真似で作りはじめ、その生産量もわずかであった。やがて鉄砲作りに手を付ける者が多くなり、大量に生産されていったのである。

大量といっても当時の刀などに比べれば、少量であっただろう。またその金額も莫大なものであった。また初期の頃の鉄砲は命中精度もそれほど良くなく、一発撃つ毎に弾を込める作業も加わり、雨天では火薬がダメになるので仕えないなどの理由から鉄砲自体を購入できる大名は少なかった。

しかしその威力は合戦に役立つことはだれもが認める事である。

それを最初に実戦配備したのが、尾張の織田信長であった。いや、薩摩の島津貴久の方が早いとか豊前の大友宗麟ではないか?といった意見も多々あるが、ここでは織田信長という事にしておく。

織田信長の生まれた尾張は元来、経済が豊かな土地でもあった。そのため多少は高い買い物であった鉄砲でも、できるうる限り購入をしていたのである。さらに近江を手中に治めたあとは、国友から容易に鉄砲を確保できる様になっていた。

その鉄砲の威力を後世に伝えるものとして、やはり織田信長が絡んでくる。三河の設楽ヶ原での合戦では鉄砲を三千丁揃え、武田の騎馬隊を壊滅させてしまった。これは鉄砲隊を三段構えにして、鉄砲を放つと後ろのモノを交代して弾を込める。そうすると単発しか発射できない鉄砲が、通常の三倍の速度でもって連射が可能になったのであった。しかしこの合戦では、鉄砲もさることながら馬防柵が有効であったなどという説も耳にする。

また同じく織田信長であるが、逆に鉄砲で痛い目もみている。伊勢の峠を越えている最中に狙撃され、危うく命を落とすところだったとか。さらに一〇年間にもおよぶ石山合戦では、一向宗の鉄砲隊にはさすがにお手上げだったといわれている。

ちなみに天正年間の頃、日本は世界有数の鉄砲保有国になっていたそうで、独自に改良された国産銃の性能は高かったそうである。

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