■戦国時代の同盟

戦乱の世であろうと、四方八方に敵を作っては、たちまち滅んでしまう。たとえ見せかけだけであっても、同盟を結ぶ事によって、身の安全を一時期なりとても、守ることができる。

ここでは戦国時代の同盟関係を、いくつかその関係を交えて紹介して行きます。

同盟という築くのには、大きく分けて二つの戦略によって分けられます。

自国の隣国との関係を良くして、お互いの領土は侵さず、危うい時は助け合うといった、「近国同盟」。そして遠隔地にある国と同盟を結び、お互いに接する隣国と交戦する「遠交近攻同盟」である。

「近国同盟」の例を挙げれば、尾張の織田信長と三河の徳川家康との間がこれにあたります。お互いに領地を接しあいながら、危急の際は互いに助け合うのです。実際に姉川の合戦や、越前への遠征さらには、設楽が原の合戦などで、両家が連合して危難に当たっています。

余談ではありますが、織田と徳川両家の同盟関係は破談になることもなく、信長が本能寺で横死するまで続き、当時としては数少ない同盟の成功例であるとおもいえるでしょう。現実的には徳川家が織田の勢力下に組み込まれたという見方もできますが。

さらに余談は続き、同盟による失敗例として近江の浅井氏と、越前の朝倉氏もついでに語りたいとおもいます。この両家の関係は数代に渡っていたという事です。一時期は六角氏に組み込まれていた浅井氏を戦国大名として独立の手助けしてくれたのが朝倉氏です。

しかし浅井氏はある時、美濃を征した織田氏と婚姻関係を結びました。これで浅井氏は越前の朝倉氏および尾張、美濃の織田氏と同盟を結んだことになります。しかし織田氏はもう一方の朝倉氏と敵対し、ついには兵を進めました。そこで浅井氏は織田家では無く、朝倉氏と運命を共にしたのです。結果的に浅井氏にしてみれば、朝倉氏との関係のために滅亡してしまったと言えるのではないでしょうか。

さて同盟というと二つの家、国という関係では無く、複数の家、国で同盟を結ぶこともあります。近い所では第二次世界大戦当時も、日独伊で三国同盟があります。

戦国時代でも三国同盟がありました。甲斐の武田氏、相模の北条氏そして駿河の今川氏です。この同盟では各々のお家事情もあり、偶然に利益が一致した結果に同盟にたどり着いたといえそうです。甲斐の武田氏の場合は、信濃平定に全力を尽くしており、さらに越後の上杉氏という強敵が存在していたのです。この越後の上杉氏に同じように対抗していたのが、関東制覇を目論む北条氏です。そして駿河の今川氏にとっては京の都へ上るという思いが強かったはずです。

しかしそんな関係にも変化があらわれてきます。永禄三(1560)年に今川義元が、桶狭間で織田信長に討たれると状況が一変しました。太守を失った今川氏は弱体化し、信濃制覇をほぼ完了していた武田氏にとっては格好の標的になってしまったのです。そして武田氏が今川氏の領国である駿河に攻め込んで、この同盟関係は消えてしまいました。

次は「遠交近攻同盟」である。接している国が大国である程、この同盟が有効であろう。もっとも有名なのが、「信長包囲網」または「反織田連合同盟」など、よび方は色々とあるだろうが、足利一五代将軍の義昭が発起人となった、織田家に対抗するための連合軍である。これに呼応したのが、甲斐の武田家、近江の浅井氏、越前の朝倉氏、中国の毛利氏、そして宗教団体(?)でもある石山本願寺の一向宗である。またこれに対応するかのように、織田信長は越後の上杉謙信に対して軍事同盟を結び、武田家の領国である信濃へ侵攻してもらえる様に懇願していたらしい。この織田と上杉の同盟も、「遠交近攻同盟」に当てはまるのではないだろうか。
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