
長良川 2025.9.4〜5
長良川と聞いて思い浮かぶものといえば鵜飼、そして長良川河口堰。私は鵜飼を見たことがありませんし、 河口堰は少し離れた川面から眺めただけで、堰に立ったことはありません。長良川での体験で足りないのはこの2つ。
「長良川に鵜飼と河口堰を見に行こう」と、盟友桂くんに声をかけたところ、「ほな行こうか」と、心地よい言葉が返ってきました。長良川を初めて訪れカヌーした日から30年。その後何度も通いましたが近年はご無沙汰しており、何と約20年ぶりです。さて、長良川はどのような姿を見せてくれますことやら。
1.岐阜公園と岐阜城
今年の夏は格別に暑く、9月に入ってからも猛暑日が続き、この暑さはいつまでも続くとさえ感じさせられていましたが、3日の朝になって「明日台風発生の見込み」と、やや唐突にニュースが言い出しました。しかも、「九州沖の熱帯低気圧が台風へと発達し、明日から明後日にかけて九州から四国、紀伊半島、東海・関東地方へと進む」との予報です。これじゃあ台風の直撃を受け、鵜飼どころではないんじゃないか。心配になり、予約している宿に電話し様子を探ってみました。
「雨が降っても鵜飼話はありますよ。増水したら中止になることもありますけど、当日の様子を見て鵜飼組合が判断します。もし宿泊を取りやめるんなら、こんな状況ですから、今でしたらキャンセル料なしで対応しますよ」とのことでしたが、その場での回答は避けました。桂くんとも相談しないといけませんからね。鵜飼は明日の夜なので、台風が近づくとはいえ、風はまだそんなに強くなってないだろう。雨が降ってもやるんだったら開催される可能性が高そうだ。万が一鵜飼が中止になっても、それなりに楽しめるだろう。あれこれ考えていると桂くんから電話が架かってきました。意見は一致、「じゃあ明日、岐阜で会おう!」
10時半、JR岐阜駅前で桂くんと合流。岐阜駅前は曇り空。雲には切れ間があり青空も少しばかりのぞいています。「せめて岐阜城の見学を終えるまでは、このまま降らないでください!」信長様に願掛けしました。
まずバスに乗り、15分ほどで岐阜公園に到着。岐阜公園は、織田信長の居宅があった場所などを整備した公園で、金華山の麓にあります。最初に目指すのは、その金華山の頂に建てられた岐阜城で、ロープウェイで登ります。心配された雨も何とかなりそうです。
ロープウェイ山頂駅から岐阜城までは、細く急な山道で登り坂。降りた順に、大勢が狭い道を一列になって登っていきます。前の人たちは健脚のようで、次第に間が空く一方、すぐ後ろは人の列。何だか急かされるようで落ち着かないため、道を譲り皆さんに先に行ってもらい、ゆっくり登ることとしました。ふうふう、二人とも既に汗びっしゃり。
ようやくたどり着いた天守閣。桂くんはすっかり息があがっていて、外でゆっくり休憩するというので一人で中へ。展示品を見学しながら階段を上った4階が最上階で、廻縁に出て外を見渡しました。まず目に飛び込んできたのは長良川。北から流れてきて、一度は金華山に隠れますが、足元で再び現れ、悠々と南へ流れ下っていきます。足元に広がる砂の川原が鵜飼会場、すぐ左に長良橋が架かり、その下流側右岸にも砂の川原が広がっています。
「キャンプしたのはあの場所だ」
それは初めて長良川に来た1995年のことで、あの時の記憶などいろいろな事が頭の中を駆け出します。1995年7月6日に長良川河口堰のゲートが下ろされました。以前より行われている「長良川DAY」という集会が、その年も11月に催され、私は、桂くん・海野くんと一緒に初参加。
初日は川下りデモ。たくさんのカヌーで上流から下って来て、長良橋付近がその日のゴール。無事ゴールした我々はその場でキャンプしました。翌日は各々で河口堰手前の河川敷に移動しキャンプ。夜に「河口堰とめナイト」という集会がありました。3日目はカヌーデモ。正午頃に河口堰の手前へみんな一斉に漕ぎ出し、カヌーの輪を作る。私にとってこの3日間は、全国あちこちで河口堰やダム建設を巡る運動が起きていることを知った大切な機会となりました。話を岐阜城に戻します。あの時、カヌーでの川下りの途中、誰かが「あの山が金華山で、頂上にあるのが岐阜城だよ」と言っているのが耳に入りました。当時の私は歴史にまるで興味がなかったので、「それがどうしたん。城なんかどこに行ってもあるわ」と、心でつぶやいていました。何という不甲斐なさ。10年ほど経ち40才を越えた頃、私は突然時代小説に目覚め、たくさん読み漁り、戦国武将への憧憬を膨らませていきました。岐阜城は斎藤道三の城、織田信長の城。
「あの時は岐阜城にまで行けるような状況じゃなかったけど、せめてもっとしっかり見ておけばよかった。1枚の写真もない」と後悔。長年に亘り引きずっていました。そんな念願の岐阜城に漸く来ることができました。下で待つ桂くんには悪いけど、じっくり堪能させていただきます。廻縁を2周3周、ぐるりぐるり。北側には飛騨の山々から流れ下りて来る長良川。西は関ケ原に伊吹山が見え、その先は琵琶湖、京の都へと続きます。南の彼方には名古屋の高層ビルに伊勢湾が見えます。北東方向には、天気が良ければ御岳山に乗鞍岳が見えるはずです。
「岐阜城の道三からは、尾張で信長が何をしているのか丸見えだ。信長だって岐阜城の動向を監視していただろう」、「ここから四方を眺めると、天下に思いを巡らすは必然。信長が天下布武へと進むは当然の出来事だった」など、あれやこれやと想像し、一人にやにや岐阜城を満喫しました。
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岐阜城を出て桂くんと再び合流。ケーブルカー乗り場の手前にある、展望レストラン「ル・ポン・ドゥ・シェル」に行きランチをいただきます。ここのお食事、メニューがなかなかユニーク。桂くんは「勝ち戦!道三ケイちゃん丼」、私は「勝ち戦!信長どて丼」。「やっぱり信長様でしょう」という私に対し、「名前なんか気にせんで、食べたいものくえばいいんや」と桂くん。道三か信長かという議論にはなりませんでした。
2.鵜飼
本日の宿は長良川のすぐ横、長良橋からもほど近い十八楼。「長良川鵜飼観覧船乗船プラン」を利用するので、早い夕食を済ませた後、宿から直接観覧船に乗り込むことになります。十八楼は創業160有余年という伝統のあるホテルで、その名は松尾芭蕉が名付けた水楼の名に由来します。貞享5年(1688年)芭蕉はこの地を訪れ、長良川に面した水楼でもてなされ、鑑賞した鵜飼に感銘を受け「十八楼の記」を記しました。その中でこの水楼を「十八楼」と名付け、「このあたり目に見ゆるものは皆涼し」の句を添えています。その場所に天保期創業した旅館「山本屋」が、万延元年(1860年)に屋号を「十八楼」と改め今日に至っているそうです。
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午後7時、ロビーに集合。そこから階段を下り、鵜飼へと続く秘密の通路「鵜飼小道」を通り、十八楼専用の出入口を抜けると、目の前は長良川で、幾艘かの観覧船が岸に寄せられています。ちょうど雨が降り出したので、出口で傘を借りて船へと移動しました。指定された観覧船は三法師丸。良い船が割り当てられました。三法師は、織田家の跡目を決める清須会議で秀吉に利用された信長の孫。成人してからは岐阜城主となり、関ケ原合戦の前哨戦で東軍に攻め落とされた苦労人です。
準備も整い、いよいよ出発という時、雨が急に強くなりました。バケツを返した様な降り方で、雨音も激しくなります。大丈夫だろうかと不安がよぎりますが、お構いなしで船は出発。不思議なことに間もなく雨は上がりました。鵜飼会場につくと、船は岸から少し離れたところに斜めに停泊されスタンバイ完了。鵜飼が開始されるのを静かに待ちます。
上流から篝火をたいた鵜舟が下ってきて、目の前へと差し掛かります。紐でつながれた鵜は潜ったり首を出したり。鵜舟の先に吊るされた篝火が闇を照らすと、ゆらゆら揺れる川面が炎に照らし出され、幽玄でとても美しいです。篝火が近くに迫ると炎の熱も伝わってきて、こちらも胸から熱くなります。通り過ぎた鵜舟は少し下流で折り返し、今度は観覧船と岸の間を遡ります。観覧船の右に乗った人も左側の人も、みんなが近くで見ることができるような運営ですね。これが6回。6人の鵜匠がそれぞれに腕を奮ってくれました。
続いて総がらみへと移行。向こう岸近く、等間隔横に一列に並んだ6隻の鵜舟が、一斉にこちらに向かって動き出し、鮎を浅瀬に追い込みながら捕らえていきます。これが本来の鵜飼の姿だそうです。遠くで揺れる篝火が川面に映り、美しい光の筋となり目の前まで伸びて来ます。鵜舟が動き出し、篝火がみるみる大きくなって、飛び散る火の粉が見えてくると、熱も伝わってきました。鵜舟はもうすぐそこ。今宵のクライマックスです。
3.台風の朝
二日目は台風の朝です。前日発生した台風15号は、この日午前1時頃に高知県宿毛市付近に上陸し東へと進んでいて、台風東側の各地では、線状降水帯の発生が予想されています。ここ長良川でも、昨夜から続く強い雨で増水し、昨日見えていた川原はすっかり水の中です。当初は8時過ぎにはチェックアウトする予定でしたが、この雨の中を急いで出かけても仕方ないので、9時半発宿の送迎バスを利用し岐阜駅へ行くことにしました。少し時間に余裕ができたので、部屋から長良川&野鳥を眺め、楽しみながら過ごすことができました。昨日乗った観覧船にも雨水がたくさんたまり、船頭さんたちでしょうか、独特の形をしたスコップのようなもので水をすくい出しています。上流でえぐり取られた大きな生木が流されてきました。アオサギは雨などお構いなしで、流れの緩いところに集まる魚を探しています。
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今日の予定は、岐阜から名古屋へ電車で移動し、バスに乗って長良川河口堰へ向かうというもの。台風の進行方向が目的地で、予報では午後3時ぐらいまで雨。河口堰見学は危うい状況ですが、「とにかく行くだけ行ってみよう」ということになり、まずは名古屋まで。当初予定とは全く違う違う時間になったので、調べていた乗り継ぎは役に立たず、バスの出発時間はわからないままでしたが、出発5分前の名鉄バスセンター発長島温泉行き高速バスにタイミングよく乗り込むことができました。驚いたことに車内はほぼ満員です。みなさん台風など気にしていない様です。
バスの中で調べると、台風は午前9時頃に和歌山県に再上陸したそうで、間もなくこの辺りに最接近。激しい雨が車窓にあたり大きな音をたてています。40分ほどで最初の停留所「なばなの里」、ここで下車します。雨は降り続いており、バス停脇の待合室に逃げ込みましたが、僅かな距離でも傘は役に立たず、ずぶ濡れです。
「雨が上がるまでここで待つしかないな」
二人はどかっとベンチに腰を下ろしました。しばらくして、スマホで地図をよく見るてみると、河口堰横の見学施設「アクアプラザながら」はすぐ近くのようです。「ここでただ待つより、頑張ってアクアプラザまで行き、見学しながら雨が上がるのを待ったほうがいい」と、桂くんとも意見が一致し、約30分の滞留の後、雨の中へ踏み出しました。具合よく雨の勢いも少し弱まってきた感じです。
4.アクアプラザながら
バス停の待合室を出て西に向かうと、すぐ目の前に河口堰の丸いキノコのような水門が見えてきました。「なんだ、こんなに近いのか」って拍子抜け。歩道橋を渡った先が「アクアプラザながら」。5分ぐらいで着きました。ちょうど雨が上がったので、中に入らず通り過ぎて、河口堰の前へと進みました。まっすぐに対岸へと延びる河口堰は延長661メートル。雨が上がったばかりのグレーの雲の下、普段より増水しているであろう長良川の水が、河口堰の中央付近を勢いよく流れ下る姿は、想像していたよりも雄大で激しく壮観です。
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雨は上がったといえ、この先の天気はまだまだ怪しいので、建物の中に入りしっかり見学・勉強することにしましょう。どうやら我々がこの日最初の入館者のようです。展示室には「長良川河口堰〜管理開始から30年」というパネルをはじめ、伊勢湾台風など地域を苦しめた水害の歴史を記す資料が展示されています。河口堰の役割として、治水に重きを置かれているとの印象です。河口堰により、上流部への塩水の侵入が防がれたことで、堰上流側の浚渫が可能となりました。これにより河口から14〜18キロ付近にあるマウンドと呼ばれる浅い部分が掘り下げられ、全体として川底が低下し流下能力が向上。出水時において1〜2メートルの水位低下が図られ、流域の安全性が高まったということです。ちょっと掘れば塩水が湧き出していたという周辺農地も、塩害を心配することなく安定利用されるようになりました。
奥へと進むと「河口ぜきのはたらきとしくみ」というビデオ展示があります。「調整ゲートの仕組み」、「魚道の仕組み」、「河口堰での水利用」、「環境を守り新しい環境を作る」、「船の行き来の仕組み」と5つのチャンネルがあり、時間の余裕もあるので全てをじっくり鑑賞しました。
「調整ゲートの仕組み」では、流量に応じてゲートの位置を操作し、オーバーフローとアンダーフローを切換え、洪水時はゲートを全開にすることを学びました。「魚道の仕組み」では、左岸には呼び水式魚道にロック式魚道、右岸は同じく呼び水式魚道・ロック式魚道に加え、せせらぎ魚道があり、それぞれで魚たちの遡上が確認されているということです。「河口堰での水利用」は、工業用水や農業用水にとどまらず、知多半島地域や三重県中勢地域へ水道水が供給されているとのこと。そして「環境を守り新しい環境を作る」では、堰上流側での浚渫により出た砂を河口部に運び、新たな干潟を形成させたことによりシジミ資源が守られているという環境対応が紹介されていました。衝撃の内容です。
ゲートが下りた頃、何度も参加した「長良川DAY」で聞いたいくつかの演説が蘇ってきます。「工業用水ニーズが、計画当初ほどではなくなったからといって、水道水に利用する案が浮上してきています。今更何ですか、河口堰で汚された水を送られても困ります」ってものと、「建設省は『環境に影響はない』って主張し続けてきましたが、現に堰下流側の干潟では、シジミは全滅しましたよ!」という激しいものです。あの時「要らない」って言われた水道水は、今や渇水期には無くてはならないという存在感を示し、シジミはもっと下流に新たに作られた干潟で再生されているという。
「運用する側からの展示なので、都合の良いことばかり並べられている」と穿って見る必要もあるのでしょうが、本質は間違っていないような気がします。「実は重大な問題があるのだが隠されている」など想像しても、疑わしいものは浮かんできません。いろいろな思いが頭の中をぐるぐる駆け巡ります。あの激しい反対運動は何だったのだろうか。行政と市民の間に生じた、単なる誤解だったのか。あの時の市民の声がある部分取り入れられ、現在のような運用がなされるよううになったのか。簡単に答えは見つからないと思いますが、自分なりにしっかり考え検証していきたいと思います。
5.河口堰を歩いて往復
アクアプラザながらを見学している間に雨はすっかり上が、明るくなってきて、晴れ間ものぞいてきました。さあ、河口堰を歩いて渡るぞ!
左岸の魚道部分を過ぎると調節ゲート部です。最初の2つ(調整ゲート1号2号)は少しづつオーバーフロー。中央部の6基(調整ゲート3号〜8号)は勢いよくオーバーフローで、轟々と流れ落ちていきます。そして最後の2基(調整ゲート9号10号)はまた少しづつオーバーフロー。手元の資料にある写真では、調整ゲート4号〜7号の4基が勢いよくオーバーフローです。今日は台風で増水しているためこの運用になっているのでしょうか。実際のところは定かではありません。約30分かけ河口堰を渡り切りました。
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今度は右岸の魚道を見学。右岸のみにあるせせらぎ魚道周辺にはたくさんの草が茂っており、草刈り作業をしている方の姿が見えます。既に台風は過ぎ、普段と何ら変わることのない炎天下の作業です。台風一過でいつもの猛暑が戻ってきました。
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右岸から左岸へ戻る際、水門からモーター音がしてきました。何だろうと思い見ていると、下流側のゲートが水面から頭を出し、オーバーフローが止まりました。すぐにまたモーター音が聞こえだしたので、更に様子をうかがっていると、ゲートの下流側から激しく濁った水が沸き上がってきました。上流側のゲートが引き上げられ川底から離れ、アンダーフロー運営に切換えられたようです。各ゲートも同様にアンダーフローに切り替えられました。引き上げられたゲートの高さは、各ゲートで違っています。中央辺りでは、見えるのは水面上に出た下流側ゲートのみですが、左岸近くでは露出した下流側ゲートに加え、水面ぎりぎりまで引き上げられた上流側ゲートも見えています。アンダーフローで流れる量も多いためか、ゲート後の沸き上がりもそれほどではありません。
アンダーフロー運営は洪水時に行われると思っていたのですが、家に帰り資料を見ていると、洪水時だけではなく平常時にも上流と下流の水位の差が小さくなるように、きめ細やかな操作が行われていると書かれています。ゲート操作に於ては水質保全も意識されているとのこと。さて、今日はどんな目的でゲートが動かされていたのでしょうか。
青春の汗と涙が染み込む長良川河口堰。激しい涙雨に迎えられ、猛暑に絞り出された汗にまみれ後にします。よくわからないことも多いので、まだまだ勉強しなきゃ。自分なりの決意を新たにし、今回の旅を終えます。