倉敷川 2011.8.7
倉敷川は、倉敷市船倉町に発し倉敷市街を東流し児島湾に注ぐ、延長13.8kmの2級河川です。その始まる場所は、大勢の観光客で賑わう、倉敷美観地区にある大原美術館の前です。昭和30年代までは、この先の倉敷用水と新川で結ばれて、酒津取水門から引かれた水を流していましたが、新川が埋め立てられたことで、現在のような水源のない姿となりました。そのため一時は水質が著しく悪化してしまいましたが、その後美観地区の整備とともに水質の改善が図られ、人々の憩える環境が再現されました。平成12年には、建設省(現国土交通省)により、甦る水100選にも選定されています。
今回は倉敷川を辿り、明治以降の紡績業の記憶、江戸時代天領倉敷、さらには源平合戦へと時代をさかのぼって流域の歴史に触れてきました。
1、酒津配水池
高梁川に設けられた笠井堰により堰き止められた水は、酒津取水樋門を通り酒津配水池に貯えられ、排水樋門より主に農業用水として倉敷市などに送られます。下流側に向かって左端の流れが倉敷用水で、かつてはこの流れが倉敷川と直接つながっていました。
笠井堰
奥の高架は山陽自動車道。右は酒津樋門樋門から取り込まれた水は、道路の下を貫通し酒津配水池に貯えられる。
酒津配水池から各地の用水へ配水されていく。5本の流れのうち左端が倉敷用水となる。
下流側から撮影。右端が倉敷用水。
2、倉敷美観地区
倉敷川を中心に、両岸の古い町並みを保存し調和させた倉敷美観地区。多くの観光客が訪れます。倉敷川始まりの地ともいえるのが大原美術館。明治時代より紡績業にて財をなした大原孫三郎により、1930年(昭和5年)に開館された日本で最初の西洋美術を集めた美術館です。エル・グレコの『受胎告知』をはじめ、欧米の優れた作品が数多く収集されており、倉敷が空襲を受けなかったのは、そのためだとも言われています。
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倉敷川から通り一本入ったところにある、倉敷アイビースクエアは 明治22年(1889年)に建設された紡績工場を利用した施設。 工場が建設される以前は、江戸幕府の代官所があった場所です。 倉敷観光案内 くらしき観光.com |
3、藤戸古戦場
倉敷が天領となった江戸時代から更に500年ほど遡った元暦元年(1184年)、倉敷川の中流域にあたる藤戸地区は、陸と島を隔てる海峡であり、源平の激しい戦いが繰り広げられました。この戦いの模様は、平家物語、謡曲「藤戸」などで今日に語り継がれています。
藤戸に源氏、対岸の児島に平家が対陣し、海軍を持たぬ源氏が攻めあぐね、徒に日を重ねていたところ、源氏の武将佐々木三郎盛綱は、地元の若者から馬でも渡ることが出来る浅瀬を聞き出し、12月26日先陣を切って海を渡り平家を追い払う功をたてたました。
藤戸の地で倉敷川を渡るこの橋は「盛綱橋」と名づけられ、彼の武勲を今日に伝えます。尚、現在の盛綱橋は平成元年に架け替えられたものです。30年ほど前、私が毎日のように眺めていた盛綱橋は、現在とはずいぶん形の異なる赤い鉄骨のトラス橋でしたが、当時の姿が左岸に設置された写真パネルに掲示されており、懐かしさいっぱいで思わずシャッターパチリと押してしまいました。
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← 藤戸寺境内から対岸を臨む。 住宅の立ち並ぶ辺りが倉敷川。 源平合戦当時は海峡であった。 手前が平氏側、向かい側が源氏。 佐々木盛綱は騎馬で海峡を押し渡り、 平氏軍の不意をついて先陣の功を 挙げた。 |
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