山田方谷を訪ねる 2018.4.29

山田方谷は、幕末期から明治にかけて、備中松山藩士として藩政改革を成し遂げ、後に幕府老中となった藩主板倉勝静を政治顧問として支え、また晩年に至るまで後進の教育に尽力し、備中聖人と呼ばれ人々から親しまれている偉大なる人物です。

方谷は、文化二年(1805年)に農商の家に生まれますが、幼い時より神社へ書の揮毫を行うなど、秀でた学問の才覚が認められ、21歳で藩からの扶持を与えられ、京都や江戸での遊学を重ねた後、32歳で松山藩の藩校有終館の学頭を命じられます。嘉永二年45歳で藩の元締役・吟味役となり、信用の落ちた旧藩札を、高梁川の川原で人民が見守る中、焼却処分するなど改革を重ね、借財で立ち行かなくなっていた藩の財政を一気に立て直し、松山藩を財に富む雄藩への引き上げを果たしました。

このことを背景に、藩主板倉勝静は寺社奉行をへて幕府老中へと登り詰め、方谷はこれを補佐します。老中として幕末を迎えた藩主勝静は、旧幕府勢力とともに函館への逃れますが、その間方谷は、備中松山城の無血開城を果たし、藩主勝静を函館から救出することも成功しました。

晩年は明治政府からの出仕要請を拒み、地元で長瀬塾や小坂部塾、また再興された備前の閑谷学校などで後進の教育に努め、明治十年73歳で没しました。
今回、偉大なる山田方谷の足跡の、ほんの少しですがですが、触れてまいりました。

1.方谷駅
JR伯備線に方谷駅があります。この場所は方谷が居宅を構え長瀬塾を設けた場所。当時の石垣は、駅の一部として今も健在です。当初駅名を中井あるいは長瀬にする予定でしたが、地元の要請を入れ方谷となりました。人名をつけた駅は前例がないと鉄道当局は聞き入れませんでしたが、ここの地名である「西方の谷である」から方谷であると弁明したそうです。長岡藩士である河合継之助が、方谷に教えを請うために訪れたのはこの地です。


線路を挟んだ向こうにある旧宅跡の碑


駅舎の一部、方谷駅資料室

 


方谷駅資料室内、パンフレットたくさん


迷わず署名しました

2.方谷の里ふれあいセンター 方谷資料展示室
高梁市中井町の「方谷の里ふれあいセンター 方谷資料展示室」には方谷の書などが展示されています。4歳の時に書かれ西山天満宮に奉納された板額に押された小さな手形印がとても印象的です。

 

 

3.方谷園
方谷の遺徳を讃え、その霊を慰め、その功績を後世に顕彰し人々の規範にしようと計画され、方谷の墓前に庭園を築くこととなりました。地元の教職員・児童生徒はもとより多くの篤志家の寄付に支えられ、明治43年に開園しました。入口正面の「方谷園」の碑文は、開園式に来た犬養毅の揮毫、「方谷園記碑」は三島中洲の撰文、そして墓石は板倉勝静の書によるものです。

 


犬養毅の揮毫による碑文


旧藩主 板倉勝静の書による墓字

←三島中洲の撰文による方谷園碑
  中洲は現在の倉敷市中島出身、
  14歳で方谷に従学し、30歳で松山藩に仕え、
  維新後は明治政府の司法官となり、また
  二松学舎を設立し漢学の振興に努めました。

 

4.備中松山城
備中松山城は現存12天守の一つ。天空の城とも呼ばれる、急峻な臥牛山の頂にある堅牢堅固な山城です。鳥羽伏見の戦い後、将軍徳川慶喜らとともに大阪城を脱出し江戸へと逃れた板倉勝静を藩主とする松山藩は賊軍とされました。新政府から征討令が出され、岡山藩が軍勢を差し出します。
これに対し方谷は、藩内の意見を恭順へとまとめ、このことを岡山藩に伝え、岡山藩から新政府に対して嘆願書が差し出されることになります。この嘆願書にあった「大逆無道」という文字を削除するよう、方谷は命を賭して求め、「軽挙妄動」への書き換えを果たし藩主の汚名をそそぐと共に、松山城の無血開城を実現しました。

 

5.小阪部塾跡 方谷園
方谷は晩年、母の出所である小阪部に移り、小阪部塾で後進の指導に当たりますが、病のため明治10年73歳で世を去りました。終焉の地となった小阪部塾跡は大正12年に方谷園として開園され、方谷が息を引き取った枕辺の地に、高さ約10メートルの石碑が建っています。石碑の題字は勝海舟によるものです。


小阪部 山田方谷記念館


方谷庵 晩年しばしば訪れた庵

←小阪部の方谷園に建つ石碑
  題字は勝海舟によるもの

 

墓石や碑文には、いずれも「方谷先生」と刻まれており、方谷が人々からどれほど敬われ親しまれていたかが偲ばれます。

 

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