野球部のルーツ

平成10年6月12日   2期生 後援会 会長  後藤 正幸

 私が都立日野高校に入学したのは、はるか昔の昭和42年でした。1期生につづきやっと2学年になったという状況でした。当時の学校群制度の中にあって、野球部のない日野高校だけには入学したくなかったいうのが、その時の心境でした。しかし、入学後に部を創設すればよいと思い入学しましたが現実は甘くなく、中学時代から知っている野球好きの何人かとで、早速、野球部創設の運動を始めました。しかし、学校側からは「サッカーを校技と決めたから」という理由にならない理由で「ダメ」と言われました。その後、私が3年の春に、「土方君」、「吉永君」らが入学し、当時2年の小松君や望月君らと話し合い、野球部創設の運動を起こしました。この時はご父母の方々からも「今どき野球部のない高校なんて…」といったバックアップもあって「同好会」が秋に認められ、翌年春に(なんと私の卒業時)「野球部」に昇格しました。

 大会初参加は、その夏の昭和45年でした。確か、国語科の小野先生がベンチを預かってくださっと記憶しています。その春にはNHKテレビで紹介されたりもし、皆頑張り、大会は投手の芝辻君の好投もあって接戦でしたが、初戦で敗れてしまいました。3期生には申し訳ないけれど、日野高校野球部が「高校野球」らしくなったのは、やはり4期生の土方君、吉永君、松本君らの努力によるものといってよいだろうと思っています。一時期伝統だった「ぼうず刈り」もこの時からでした。一人一人は決して上手ではなかったけれど、元気の良さは他校に負けてはいないと感じていました。5期生は3年夏にはバッテリーの星谷君と永田くんの二人だけでした。練習試合ではほとんど勝てなかったのに、夏の大会初勝利はこの年でした。練習試合では1試合で2ケタ失点が当たり前だった星谷君が2戦目負けはしたものの、2試合での失点は確か7点だったかなと記憶しています。6期生は中村君(現姓市川君)、伊藤君らが神宮で試合をしました。「拓大一高」を相手に7回表まで1対1の接戦でしたが、投手の野崎君が疲れて負けてしまいました。

 話し始めるとキリがないので、この続きは可能であれば次の機会にしますが、日野高校野球部の際立って上手な選手もいない、体も大きくない、一方でまじめなところ(勉強にではなく野球にたいして)は昔からのものだったんだと思って頂いてよいと感じています。そういった継続の中で、各期の部員にとってやはり大変だったのは部員の確保だったかなと感じています。練習への参加態度や髪型などを見て、野球部は厳しいと見られ、入部さえしてくれれば十分にやっていける生徒も、入部しなかったり、一旦入部しても退部したりという生徒も多かったと思います。しかし、弱小チームであったとしても、部員数を確保するためにチームの方針まで変える必要があるかは自ずと自明だと考えておりました。どうしても話しは男子部員(今は十分なおじさんもいますが)の方に行ってしまいます。しかし、毎年男子部員とともに勝って喜び、負ければ一緒に泣いてくれた多くの「女子マネージャー部員の皆さん」、本当にありがとうございました。皆さんのサポートがなかったら選手たちは存分なプレーはできなかったはずです。

 忘れていけないのが、「多田先生」「勝俣先生」をはじめとする多くの部長先生方です。こういった先生方のご理解と部員への叱咤激励がなかったら、やはり今の日野高校野球部はなかったろうと思います。心からの尊敬と感謝の意を表すとともに、諸先生方のご健康と今後とものご活躍をお祈りして、乱文の末とさせて頂きます。

 

 

  野球部のルーツ その後
     

平成25年6月  2期生  後援会会長  後藤 正幸


 前回「野球部のルーツ」を書いたのが平成10年でした。私の怠慢もあって、続きを書かずに来てしまいましたが、何人かから続編をといったご意見・ご要望もあったので、あらためて、私の記憶なども含めて書かせていただきます。 なお、私の記憶違いで、万が一事実と異なった記載になった場合は、関係する方々のお許しをお願いします。

 前回は6期生までの活動を記しました。 7期生は主将の阿部君はじめ男子部員は3名のみ(女子部員も3名でしたが)。3年時はバッテリーと二塁手と、チームの中心として頑張りましたが、2戦目で結果ベスト4まで進出した都世田谷工(現 都総合工科)に負けてしまいました。相手投手はアンダーハンドの好投手でした。 8期生は、主戦の原嶋投手を中心とした守りのチームでした。秋は1勝したものの、夏は成蹊と接戦のすえ3−4で初戦敗退。しかし、力のこもった好ゲームでした。この試合ベンチは3期生の望月君が入りました。

 この前後13期まで、頭髪の丸刈りが嫌われてか入部者が少なく、チーム編成に苦労する年代が続き、9期生も男子部員4名のみ。奥田主将(現姓 松澤君)を中心に1・2年生を含めたチームでしたが、夏の大会で2勝したのはこのチームが最初でした。しかし、3戦目で当時とても強かった都東大和にコールドで負け、率直なところ力の差があったと感じさせられました。この年と翌年は、若くして病に倒れた5期生の星谷智之君が監督しました。 10期生も男子部員は5名でしたが女子部員は4名で、むしろ女子部員の元気良さが印象に残っています。主将の染谷君は大事な夏の大会前に確か手の指を骨折して試合に出られず、さぞ残念だったろうと思います。しかし、チームは3勝し、細田君が本塁打を2本放つなどしましたが、前年全国優勝の桜美林との4戦目では細田君もきっちりマークされ、ヒットも打たせてもらえなかったと記憶しています。桜美林はエースピッチャーをはじめ選手個々はさすがと思わせるほど強かったです。

 この前後の時期、日野高校では、多田先生や勝俣先生が顧問=部長をお勤めいただき卒業生が監督を務めるという形式をしばらく続けていました。 11期は6期生の伊藤芳明監督のもと、原嶋主将投手を中心とした好チームでしたが2戦目に延長で敗れてしまいました。原嶋投手と相手投手の投げ合いは見事でした。 12期は男子部員5人のみ。夏は初戦から日大三高と対戦し、中野投手が中盤までうまくかわしながら投球しましたが、7回につかまって結果コールド負けでした。 13期の夏は初戦で日大桜丘。増島投手が要所を抑えて大接戦。8回裏に逆転し9回表まで4−3でリードしていましたが、2死で打者の打球はレフト前のライナー。左翼手がダイビングしたもののわずかにショートバウンドで同点にされ、その後逆転され結果4−6の悔しい敗戦でした。 この年、ベンチは10期の田村君。日体大に通学しながら監督として、独自かつより専門的な手法で部の指導に当たってくれ、部員はもとより、我々OBの野球に対する考え方を変えてくれたと言っても良いと思っています。

 さて、次の14期。日野高野球部の一線を画したと言える代。部員も13名と当時としては多かった。秋の大会でブロックの4校に入り、本校で初めての春季大会出場。初戦で惜敗しましたがこの経験が夏に生きることになりました。 その夏の大会。初戦の相手は偶然にも前年と同じ日大桜丘。前年に試合に出た部員もおり、今でいう「リベンジ」の気持ちがあったのだと思いますが、14−0の5回コールド勝ち。応援していた我々も最高の気分でしたが、選手たちは互角以上に戦える意識があった様子でした。2戦目もコールド勝ちしましたが、3戦目は明星の好投手に零封されてしまいました。初戦で日大桜丘に勝ったことがかえってプレッシャーになったのか、1戦目とは全く別のチームのように見受けられました。しかし、井上(喜)君・藤巻君のバッテリーを中心として、掛け値なしで、それまでの日野高野球部で最強のチームでした。

 15期、16期は11期の沼田君が監督しました。 15期の夏は、都大泉に苦戦しながら、最終回に相手のパスボールでサヨナラ勝ち。このプレーはスクイズのファウルなのか、パスボールなのか微妙でした。2戦目も勝ち、3戦目は雨中での日大二高戦。先手をとって前半は互角ながら、慣れない雨もあって7回コールド。堀江主将を中心によくまとまった好チームでした。
 16期も気合の入った、強いと印象させたチームでした。しかし、2戦目でこの大会準優勝した帝京大高に終盤逆転され2−3の惜敗。相手投手の変化球は一級品でしたが、2回戦とは思えない力のこもった好試合でした。

 17期、18期は13期の安田君が監督。 17期は幕田主将や恩田君などがいて、ハイレベルな好チームでしたが、夏は2戦勝利後の東京菅生(現 東海大菅生)に、序盤で5点リードされ結果2−5で敗れてしまいました。最終回の追い上げがもっと早いイニングで出ていればと悔やまれる試合でした。 18期は安田監督の手作りのようなまとまりをもったチームでした。2戦目の佼成学園戦は9回表にスクイズで同点に追いついたものの、その裏サヨナラ負け。相手の好投手に対し少ないチャンスをとらえて最後まで食い下がった好ゲームでした。

 19期の2年の秋から、この年に着任した、大桐先生に部長を兼ねた監督をお任せすることになり、日野高野球部に大きな変化が生ずることになりました。 我々OBも、かねてより、卒業生のしかも大学生の中から監督を選ぶ苦労もあって、野球部指導のできる先生の着任を願っていましたし、大変喜ばしいことと思いました。しかし、一方で練習グランドに顔を出しにくくなって、現役選手らとOBの間がだんだんと疎遠になり、必然、大会の試合も応援というより「見に行く」ようになっていました。 また、当時結成していた「OB会」も卒業生が入会しないことなどもあって、この数年後には解散することになり、我々はOBというより日野高野球部卒業生というだけの立場になってしまいました。それでも、我々みんなで育ててきたようなチームですから気にならないはずもなく、その後も試合会場では多くの卒業生と顔を合わせたものでした。と同時に19期くらいまでの主だったメンバーで年2回ほど集まって旧交をあたためるとともに、いつかまた「応援」できる日を皆願っていました。

 前記したとおり、私も毎年、夏の大会だけは見に行っていましたが、その中で、私なりの観戦した上でのコメントを記したいと思います。 19期では、清水・中出両君のバッテリーと基本に忠実なプレーぶりが印象に残っています。 20期以降では、 20期の田辺君のセンスの良さを示すプレーが目をひきました。 21期は細井捕手を中心とした、強さを印象させるチームでしたが、残念ながら東大和に惜敗しました。しかし、力は上と感じました。このチームでは、記憶に誤りがなければ、ライトスタンドにライナーで本塁打を打ち込んだ羽鳥君の印象が深いものがあります。 22期・23期では、大山投手と小暮捕手が印象に残っています。大山君は2年のときに翌年が楽しみと思わされましたが、3年では結果が出せなかった。小暮君はファイトあふれるプレーに好感が持てました。 24期は夏の大会4勝し、4戦目はその年第1シードの桜美林に快勝したチーム。深田君・知元君のバッテリーも良かったが、やはり藤田遊撃手の打撃での活躍が大きかった。 25期以降の中で印象に強く残っているのが、いわゆる本格派といってよい投手たち。25期の深田君、28期の飯島君、29期の糸君など。いずれも好投手といった印象がありましたが、持てる力を十分に発揮しきれずに最後の試合を終えてしまったのではと感じられました。打者の中では、30期の土屋君をよく覚えています。打・守・走どれをとっても高い身体能力が感じられました。

 この時期ベンチには、大桐先生ではなく21期の園田君が入っていました。

 さて、平成11年に入り10期の田村君から、野球部指導のできる体育科の先生が異動してきたという情報がありました。佐藤賢司先生です。早速、田村君と二人で「野球部をよろしく」と挨拶にいったところ、先生は最初から野球部指導にかかわるつもりでおられ、加えて、田村君と日体大の同期と判明し意気投合。我々も再びスタンドで心の底から応援できるようになったというわけです。

 佐藤監督は、翌年早速32期を率いて、夏ベスト16。4戦目でベスト8をかけて帝京八王子と戦い、初回に8点をとりましたが、結果延長戦で11−12の敗戦。エースが調子をくずしながらよく頑張ったチームでした。 33期は川久保捕手を中心とした好チームでしたが、2戦目で敗退。もっと上位を望めるチームだっただけに残念でした。ちなみに、卒業後、読売巨人軍にドラフトされた横川君が入学したのはこの年。川久保君がいたのでこの夏は控え捕手でした。 34期も強かった。夏の2戦目で本校としてこれまで勝てなかった東大和に勝利し、力のあるところを見せてくれましたが、次の都町田戦で早めに相手投手を打ち込んでいながら、最終回にまさかの逆転負け。しかし、この試合での多摩一本杉の場外への横川君のホームランは圧巻でした。

 さて、日野高野球部の歴史を大きく塗り変えたといってよい35期。主戦青松君と横川捕手を中心に投打守がかみあったチームでした。秋季・春季とベスト8。秋の本大会以降横川君はマークされてか、なかなか打たせてくれない感じ。その分、5番を打っていた青松君の好調さが目立ったものでした。 本校として初めてシードされた夏は初戦で都国分寺戦。強いチームとは予想していましたが案の定大苦戦。相手投手のフォークをとらえられず中盤まで0−3の守勢にまわり、終盤追い上げたものの結果2−3で敗退してしまいました。青松君も成長のあとを見せてくれましたが、相手キャッチャーのショートバウンドするフォークを後逸しないプレーが素晴らしかった。 ところで、この年横川君はドラフトされましたが、スカウトさんの「打つ、投げるもだが、インサイドワークを評価している」といったコメントを聞かせていただいた。さすがプロのスカウトは幅広い識見を持っているなと感じさせられました。 また、余談ながら、我々の後援会はこの年に発足し、応援の本腰を入れていくことになるわけです。

 次の36期はどうしても前年と比較されがちでしたが、一回り小さいながらバランスの良いチームで、2年の夏から急成長した井越投手がよく投げました。ただ、惜しかったのは夏の2戦目、穎明館を相手に被安打1のその1本を活かされ2失点し、試合はそのまま0−2。決勝まで進出した相手投手も素晴らしく、まさに、手に汗にぎるすごい投手戦でした。 37期も良いチームでしたが、秋・春・夏とも結果は出せずじまいでした。夏は2戦目で東海大菅生。序盤から点の取り合いでしたが、最後は力尽きた感じで8回コールド。しかし、相手のエース投手から高岸君らの2本塁打6得点は打のチームにふさわしい迫力で、力は出し切ったなと感じさせてくれました。

 38期は35期生の活躍を見て入学した年代で、部員は男子だけでも40名以上。春の大会で、勢いのあった都昭和をねじ伏せ力のあるところを見せてくれましたが、夏は2戦目でシードの明大中野八王子。練習試合で勝っている相手ということで決して油断したわけでもないのでしょうが、なぜか3年生はこちこちで、持ち味の半分も出せないままの悔しいコールド敗戦。3年生の半数以上がベンチに入れない中で、試合に出ていた3年生にはプレッシャーがあったのか?1試合でも多く全員野球で戦いたい思いはあっただろうと推測していたのでしたが。ただ、この学年は多数であったにもかかわらず、入学から3年夏まで部員数があまり減らなかったと聞いていました。さぞ競争も激しかったでしょうが、佐藤監督やコーチ諸兄のよき指導とともに、仲間の中での励ましあいなどの結果と思いたいところです。

 39期は柴田主将投手・森捕手を中心とした好チームでしたが、接戦になるとなぜか勝ち味が遅く結果につながらなかった代でした。ただ、控え選手の層の厚いハイレベルなチームであったことは確かです。

 佐藤監督による指導はこの代までで、40期は今は亡き加藤陽一先生が監督しました。この代も男女あわせて30人以上の大所帯。秋は国学院久我山に初戦敗退。春も予選ブロックを勝ち抜けなかったのですが夏は頑張りました。初戦で2年生ながら都立ナンバー1と評判された投手のいる調布南戦は15回1−1の引き分け。再試合も初回に先制されはらはらさせてくれましたが、たしか佐藤君の逆転長打から勢いを得て快勝しました。ただ、引き分けた試合のお互いに1点も与えられない緊迫感の中での小室君と相手投手の2年生左腕どうしの投げ合いは見事でした。次の試合は秋に負けた久我山戦。調布南戦同様、大野・小室両君のリレーで5−1で勝利。日野高選手のはつらつとしたプレーが印象に残りましたが、ただ、この試合、相手チームのほうがエラーが出たりで、一度対戦して勝っているだけにやりにくかったのかなと思わされました。しかし、次の試合では、都狛江の先頭打者に初球本塁打され、相手チームを勢いづかせてしまい、終始ペースを奪いかえせず結果敗退。持てる力は上と思われただけに残念な思いが残りました。

41期は、男女15人のこの前後にはめずらしく少人数でしたが、元気な近藤主将中心によくまとまったチームでした。また、このチームから島田監督が采配を振るうことになりました。平成20年の春は、ブロック2試合を勝ち上がり、本大会は4戦目で日大鶴ヶ丘に0−2で敗れるまで延べ6試合を戦いました。この中では、5試合目にあたる本大会3戦目の都足立新田戦で劣勢をはね返してサヨナラ勝ちをおさめた試合が印象に残っています。小室君の調子も悪くなかったと思いましたが、同じ都立ながら強力な打線を持ち、夏は東西別で良かったと思わされる相手でした。 この夏はシードされ、初戦は佐藤監督が指導される都国立戦。1年時は佐藤監督に指導された学年なだけに手のうちは十分に知られ、一番対戦したくなかったチームだったはず。案の定、終盤まで1−0で経過する緊迫した試合でしたが、8回裏に付きはなし4−0で勝利しました。小室君は完封で佐藤監督に恩返しした格好でした。次の強豪実践学園にも勝ち、ベスト8をかけて早実との一戦。小室君も力むことなく好投しましたが、初回に守備のミスもあって2点を献上。中盤に追加1点を許し(結果これが痛かった)、終盤1点を返し、最終回も3塁打が出たものの2点差だったため強攻策しかなく結果1−3のままの敗戦でした。 ちなみに、この試合は日曜日でもあってか、立川市営球場の外野スタンドも埋まるほどの観客でした。相手が人気チームの早実とはいえ、地元でもある本校の応援者も多かったと自負しています。現にその後は本校の応援席が大勢の人で埋まることが多くなったと感じています。 もう一つちなみに、小室君は卒業後、学力面もクリアして立教大学に進学し、持ち味の球のキレやクレバーさを発揮して同大のエースとして東京6大学野球で活躍しました。

 次の42期の代も書くことが多いチームでした。秋は蓑田投手の頑張りで本大会へ。しかし、初戦で安田学園に敗退。春は渡辺君が主戦で引っ張り4回戦まで進出し夏のシードを得ました。この春の3回戦では、東海大菅生を相手に、1回と5回の2度ビッグイニングの9点をとり、19−3と大勝しました。新2年生の成長が著しいと印象させた大会でした。 そして、夏。春は打線のつながりが良かったチームでしたが、夏の大会前は投手陣の特に吉川君が好調との情報がありました。 シードされた初戦はすごい速球を投げる投手の多摩大聖ヶ丘。前半は球速に押された面もあって0−2の劣勢に立たされましたが、相手投手は典型的な力投派のため、何とか後半にと期待していたところ、8番を打っていた長瀬君の逆転長打からペースをつかみ勝利。 2戦目は、この代の前年秋に4強の明大中野戦。追いつ追われつのシーソーゲームも9回裏6−7の大苦戦。1死3塁から、外野飛球で3塁走者の蓑田君が足を活かして同点にし、10回表のピンチを併殺でしのいで、その裏渡辺君がサヨナラ安打を放っての勝利でした。2年生が多かったこのチームでしたが、6回から無失点に好投した吉川君も含め大事なところは3年生が活躍してくれました。チームはこの2試合の苦戦から勢いに乗り、3戦目と4戦目(準々決勝)はコールド勝ちして本校初めての準決勝戦。 相手は日大三。それまで大差をつけてコールド勝ちを続けてきたチーム。誰もが日野高も大差で・・・と思っていたのでは? 正直、私もどこまで試合になるのかと思っていました。 ところが、初回、菊池(理)君の2塁打で2点を先取する一方、好調を持続して、満を持して先発した吉川君が無失点とし、5回終了時で4−2とリード。6回表には小林主将のタイムリーで6−2。勝っちゃいそうだぞと思った途端、6回裏に3点返され、7回には、替わった渡辺君も2失点し逆転されてしまい、そのまま6−7でゲームセット。 このチームは1ケタ背番号中6人が2年生。怖いもの知らずな彼らを主将の小林君はじめ3年生がうまく引っ張ったというチームでした。日大三高に負けて残念というか我々も悔しかったのですが、少し「甲子園」が見えてきたと感じさせたチームでした。 余談ながら、翌日の新聞はどれも日野高の方に記事の多くを割いたと記憶しています。

 さて、次の43期。部員も30人以上と多かったのですが、2年で試合に出ていた部員が多く、秋は大いに期待されました。 秋の本大会では、都総合工科、都小平に苦労しながらも勝利し、準々決勝の明大中野八王子戦では9回裏まで2−6のビハインド。しかも2死から四死球と内野安打で満塁。前の打席でホームランを打っている4番の豊田君は敬遠ぎみ(?)のフォアボール。そして菊池君。初球をきれいに打ち返すと何と「逆転満塁サヨナラホームラン」。本校応援団はもとより、相手チームも含めみんなびっくりでした。 準決勝は東海大菅生戦。この年の春に大勝した相手。初回から点の取り合いで、3回裏には松本(勝)投手の満塁本塁打も飛び出て3回を終わって7−3と良い流れの序盤でしたが、8回表に守備のミスもあって逆転されてしまいました。それでも8回裏に同点にし、まだまだと思った束の間、9回表に再びリードを許し結果8−9の敗戦。たった一つのエラーが試合の流れを変えてしまうという典型的な試合であったと感想しました。

 さて、翌年春は2戦目で修徳戦。松本投手はよく投げたものの、相手の4番のホームランはすごかった。この一発で試合を決められてしまいました。 夏は前年ベスト4の主力が多く残っていたので期待していましたが、なぜか打線が不調で、初戦は延長で1−0、2戦目も2−1と辛勝。 何が原因か当然わかるはずもないのですが、私たち応援する側も前年以上と思っていたのですから、3年生たちには「甲子園」の3文字が重くのしかかっていたのかも知れません。 3戦目で同じシードの東亜学園戦。相手の気迫に押されてか立ち上がり5失点。それでも本来のこのチームならすぐ2〜3点取り返して流れを引き戻すはずが無得点を重ね、最後は悔しいコールド負けで終えてしまいました。

 続く44期も男子部員30人ほどの大所帯。金敷主将がよくまとめたチームでしたが、秋はブロック決勝で世田谷学園に敗れ、春は・・・と思っていたところ、東日本大震災があって、春大会のブロック予選が中止され夏大会にかけることになりました。 しかし、この夏までに2年生の多くが急成長。打線の中軸は2年生が背負うことに。 初戦から3試合をコールド勝ちしてベスト8をかけた4戦目の日大三高戦。先発投手が序盤から点を奪われ4回表で0−7の大苦戦といった展開になりましたが、4回裏に佐々木君の2点本塁打が出て勢いを取り戻し、相手のエースを引っ張り出し、この投手からも得点し、7回終了時で6−7の1点差。4回以降、三高の強打線をうまくかわしていた主戦の筒井君が8回2死からエラーもあって失点、投手交代も相手の勢いを止められず、結果6−15の敗戦でしたが、この年、日大三高は全国優勝。それだけのチームを相手に、7回裏に一打逆転といった状況をつくりだすまで追い詰めたのは立派でした。 この代の3年生は多くが秋はレギュラーで、夏は2ケタ背番号といったチームでしたが、その分、層の厚みを持ったチームでした。

 45期は、2年夏に試合に出た選手が多く大いに期待させるチームでしたが、秋・春とも不満足な結果でした。 しかし、夏大会はそれまで力を貯めていたかのような快進撃を見せてくれました。2戦をコールド勝ちしたあとの3戦目。相手は早実。この年の早実なら簡単に負けはしないと思っていましたが、本当に勝ってくれました。ただ、この試合で苦しかったのは11回裏の守備。無死満塁の絶体絶命のピンチで、2死後の打者にはスリーボールになり、ただストライクを投げるしかない局面で佐々木君は踏ん張っての勝利でした。むしろ、このピンチを凌いだのがその後の自信になったのかもしれません。 次の日大鶴ヶ丘戦。相手は第1シードで好投手を持っているとの事前情報。ただ、選手たちは相手はどこであろうと関係ないと言わんばかりに淡々と試合に臨んだように見えました。試合は、初回から佐々木君のタイムリーで始まり、終始我が方の流れで進展し、結果8−4の勝利。
 そして、準々決勝の日大三高戦。前年も3年前も負けている相手。ベンチの島田監督だけでなく、本校関係者の多くが「今年こそ」と臨んだ試合でしたが、立ち上がり3失点。選手たちは気負いもなく自信を持って試合に入ってくれたように見えましたが、やはり、緊張があったのでしょうか。ただ、2回以降は佐々木君も要所を抑え追加点を与えず、一方、ヒットは出るもののここというところでの相手投手の変化球にてこずり、内容的にはほぼ互角と言ってよい試合でしたが結果0−3の敗戦に終わりました。しかし、5回1死満塁のチャンスに金子君・佐々木君の4、5番を抑えられての敗戦であったことから、ある意味「しようがない」と納得する部分もありましたが、少なくとも今年のチームならと、甲子園がより近くに見えていた人たちには、互角に近い試合展開であっただけに残念に感じられたであろうと思われます。ただ、この年のチームが残した財産はいろいろな意味でとてつもなく大きなものだったと思います。今後も後輩たちがこの財産を糧にもっともっと強いチームをつくり、いつの日か甲子園出場を勝ち取ってくれると期待しています。

 以上、長い間「日野高校野球部」を見てきた者として感じたままを長々と記させていただきました。この野球部は、最近「甲子園に近い都立高校」のようなことを言われたり、各方面から注目されていると感じられます。事実、夏の大会の応援席は年々増えていると実感していますし、甲子園まであと数歩というところまで毎年成長していることも事実だと思います。 だからといって、選手諸君らには過信・慢心することなく本校野球部のモットーである「人間力・感謝・前向き」の精神を持ち続け、ただひたむきにプレーするチームをこれからもつくってほしいと思います。甲子園への道は必ずやその延長上にあるものと確信しています。

 この拙文の続きは将来どなたかが書いてくれると思います。それまで一旦ペンを置かせていただきますが、創部40年を超えた「日野高校野球部」をこれまで何等かのかたちで応援いただいた皆様に深く感謝の意を表するものであり、今後とも引き続き末長く応援くださるようお願いいたします。 いつの日か、甲子園球場のアルプススタンドで! ありがとうございました。