風と空と草原

「鳥は大空を自由に飛べていいなぁ」
 少年は頭上に広がる青い空を見上げながらつぶやいた。
 茶色がかった髪。ほっそりとした体は緑色のチョッキとズボンに包まれていて、まるで森の妖精のようだ。
服からのびた小麦色の四肢は、太陽の光を受けて輝いている。その輝きは大人には許されないであろう、生気の輝きでもあった。

『空を飛ぶ』

 それが、誕生日をまだ12回しか迎えていない少年の夢だった。
 鳥の飛ぶ様子を観察し、小型の模型を作っては実際に飛ばせてみるということを、すでに2年近く繰り返しているのだ。
 少年はなぜ2年もの間、空を追い求めているのだろうか。
 それは少年にも分からない。
 ただ心の中から沸き上がってくる不思議な思いに導かれるままに、空を夢みている。
 そして今、少年の夢は実現の一歩手前まで来ていた。


 どこまでも続く緑の草原。そこを、初夏の風が優しく通って行く。
 そこには、政治や権力とは無関係の大きな自然があった。
 人々は自然に感謝し、自然と共存することで生活してきた。
 それは今まで変わることのなかった、そしてこれからも変わらないであろう、自然と人間との間における暗黙の了解である。
その大きな自然を、体いっぱいに受けとめながら横たわる人影があった。
人影は死んでいるわけではない。眠っているのだ。
 どこまでも穏やかな寝顔は、少年のものであった。あの、空を追い求める少年だ。

 少年が暮らしているのは石造りの一軒家の中にある、わずか6畳ほどの部屋で、いちばん奥には暖炉があり、その上には1枚の肖像画が飾ってあった。
 椅子に座っている女性を横から描いたもので、ふっくらとした体付きや整った目鼻だち、黒く流れる髪、真珠のような肌は、誰が見ても美人と言うのを躊躇しないだろう。
 その女性が少年と、その姉の母だった。
 都市へ働きに出ていた夫が事故で亡くなってから女手1つで2人の子供を育ててきたのだが、わずかな蓄えが底をつくと、夫の親友であった村長に姉弟のことを頼んだ。
 少年の母は、2人の子供を育てるために自ら身売りをしたのである。
 身売りした当時6才だった姉はともかく、少年はその顔を覚えていない。
 絵を見る限り美人である母親を、彼はひそかに誇りに思っている。
 一度、姉にそのことを話したことがあった。
 その時姉は、涙を流して黙って少年を抱きしめた。
 長い長い抱擁。
 少年を抱きしめながら、姉はうなずいていた。何度も何度も。
 その姉は、数年前に妻を亡くした村長の家で家政婦として働いている。住み込みであるため、少年に気を遣ってやれないのが彼女の悩みであった。
 村長とは半年ほど前から恋仲であり、近々結婚する予定になっている。
 少年にとって、それは姉が自分から遠ざかって行くことを意味しており、祝福しながらも、一抹の寂しさを禁じえなかった。
 姉が結婚したら、迷惑をかけないようにしよう。
 そう決意して、農場での仕事によりいっそう励むようになった少年にとって、草原の中でこうしてのんびりしている時間は、疲れきった体を休めると同時に、空への思いを感じるときであり、毎日欠かすことの出来ない日課であった。

「シェン兄ちゃん!」
 その声は少年の眠りを揺さぶり、目を開けさせることに成功した。
 少年−−シェン・ラ−−は小さくあくびをすると、声の持ち主を探す。
 いた。
 少年よりもずっと小さい男の子だ。褐色の肌に黒い髪、黒い瞳。皮のズボンをはいて、上には皮の上着を羽織っている。
「シグか……。どうしたんだい?」
「父さんが、今日の夕食は僕の家で食べて行きなさいって」
「ありがとう。いつもすまないね」
「ううん。僕も父さんも気にしてなんかいないよ。かえってうれしいくらいさ」
 シグこと、シグラス・デル・ザンはこの村の村長、ラグラス・デル・ザンの息子ということもあってやや大人びているが、少年にとっては弟であり、友達でもあった。
 ともに野を駆け、木に登り、川で泳ぐ。
 シグにとってそれは、一番の楽しみでもある。もちろん少年の仕事が休みの時だけではあるが。
 そしてシグの父、ラグラスは、姉弟の大きな後ろだてとなっていた。
 仕事を提供し、食事に誘う。さらに、少年の夢に協力する。
姉弟にとって、ラグラスはまさに恩人であった。


 次の日、少年はさわやかな目覚めを迎えていた。
 空を飛ぶための実験にお金をつぎ込んでいる少年にとって、村長の家で食べる食事は普段の数倍も豪華に感じられる。
 だが同時に彼は、村長と交わした会話を思いだしていた。



 村長は26才。村の運営を一手に引き受けており、気苦労が絶えないせいか実際よりも5才は老けて見える。誠実な人柄とはきはきと話すその態度で、村人からの信望もあつい。
 その村長が、常日頃とはうって変わって何やら言いにくそうに口を開いた。
「実は、王都の貴族どもが噂を聞きつけたらしくてな。私は否定しているのだが、本当の事が露見するのはそう遠い話ではないだろう」
「じゃあ、貴族達が魔法を武器にこの村へ乗り込んでくると……」
 ガシャン!! と、何かの割れる音がした。
 見ると、少年の姉が呆然と立ち尽くしている。
 あの肖像画の女性をほんの少し幼くしたようなのが、少年の姉だった。白い服に茶色いスカート。今はエプロンをしている。
 床に陶器の破片と透き通った薄茶色の液体が散乱しているのから察するに、食後の飲物を持ってくるところだったのだろう。
 少女はすぐに我に返ると、すみませんと言ってそれらの片付けを始める。
 村長はしばらくそれを見ていたが、再び話し始めた。
「君も知っているとおり、魔法とはこの世界に満ちている自然の精霊と会話し、その力を借りることで使うことが出来る。だが、精霊と会話する方法を知っているのは貴族と、彼らに忠誠を誓った兵士達だけだ。貴族は我々にその方法を教えないことによって、自分達の支配体勢をより確かなものにしているのだ。
 我々平民の中にも、自力で精霊と会話しようとした者もいた。だが、貴族は精霊と接触した者をチェックしている。精霊相手に偽名は通じないから、貴族にはすぐにばれてしまう。
 貴族は恐いんだよ。我々が力を手にいれて反乱を起こすことが。なにせ、貴族とその兵士は人口の1%にすぎないのだからね」
 そう言うと、村長は懐かしそうに目を細めた。
 村長の親友だった、フィラ・ソ・ディが、21才の時に精霊と会話をして貴族に惨殺されたことは、村の者なら誰でも知っている話だった。そしてその後に、「だからこそ、村長は空を夢みる少年に援助を惜しまない」という結論がつくのが、村人の話の常なのだ。
 村長は否定も肯定もしていないため、はたして亡くなった青年と自分とをどの様に関連付けているのか、少年には分からなかった。
 そんな少年の気持ちを知ってか知らずか、村長は無表情のまま話を続ける。「力というのは何も精霊に限らない。シェン・ラ君。君の空を飛ぶ道具だってそうだ。芽が出る前に根からつみとる、というのが貴族の考え方だ。だからこそ、君の噂の真偽を必死になって確かめようとしている」
 そう言って村長がため息をついたのを、少年は見逃さなかった。
 彼は村長の話し方から、何か不吉なものを感じ取っていた。
「それで……それで僕にどうしろと?」
「この村を出るんだ。そして、もっと遠い、貴族の手が届かないところへ行って、そこで空を飛ぶんだ」
「つまり、逃げろと言うんですね」
「いや……ああ、そうだ。君はこんな所で死ぬような人間じゃない。生きるために逃げろ。逃げてくれ」
「お断りします。僕は負け犬にはなりません!」
 持ち前の負けん気の強さも手伝って、少年の怒りは最高潮に達し、彼は思わず立ち上がっていた。
 が、少年にとって意外なことが起こった。
「この馬鹿者が!!」
 村長がそう叫んだかと思うと、少年の体は宙を飛んで床にたたきつけられたのだ。
 今まで村長は、大声で叫んだ事もなければ人を殴ったこともなかった。だからこそ、シグも素直に育ったと言える。
 その村長がどうして……。
 少年の幼い心では、まだ理解できなかった。
「シェン、ラグラスさんの言うとおりにしなさい」
「姉さんまで。今日のみんなはどうかしてるよ!」
「シェン・ラ!!」
 姉も怒鳴った。
 それは少年にとって、絶対の命令である。
「……はい」
 不満を顔いっぱいに表わしつつも、少年はうなずいたのだった。



 少年は頭を振って昨日の事を脳裏から追い払い、大きく息を吐き出すと見慣れた部屋を見回した。
 2年前に初めて作った模型。
 この2年間に作った、数々の模型と設計図。
 そして、完成間近の飛行具。
 それは鳥の姿をまねて作られた、一種のグライダーだった。
 後一週間あれば、完成して姉と一緒に空を飛ぶことが出来るのに。
 だが、その時間は与えられなかった。村長と、あろう事か姉までが、この村を出て行くように言ったのだ。
 完成しない限り、飛行具は持って行けない。つまりは、設計図を元にもう一度最初からやり直すしかない。
 少年は諦めに似た感情と新たな決意を胸に、荷物をまとめ始めた。


 最初に気づいたのは誰だったのか。
 だが、そんなことに意味はない。
 目前に迫ったその姿に村人はおびえ、家の中に入り、堅く戸を閉ざした。
 馬に乗った兵士。その胸には、剣と炎をあしらった「魔法戦士」の紋章が彫られている。
 魔法戦士。
 貴族に忠誠を誓うことによって魔法の力を手にいれ、同時に剣技をみがいた最強の戦士。
 その魔法戦士が、この村に何の用があるのだろう。
 ほとんどの村人がそう思う中で、その理由をはっきりと悟っている者もいた。
 村長、少年、そしてその姉。
 彼らには分かっていた。魔法戦士が少年の実験の成果を残さず消すためにやってきたという事を。
だが、正確には少し違った。
 魔法戦士達は、この村1つを丸ごと消し去るつもりだったのだ。
 一度は逃げ込んだ村人も、火の精霊によって家に火がつくと、再び外へ飛び出した。
 村人達は、それがごく当然であるかのように村の中心にある広場へと集まってくる。
 今や、村は真紅に染まっていた。
 村人達が自然とともに暮らしてきた家は、炎の中に消え去ろうとしている。
 そして、それは少年の家とて同じだった。
 たまたま、荷物を入れる袋をもらいに村長の家へと行っていて家を空けていたため、すでに家は炎に包まれている。
 少年はたとえ火の中であろうと、飛び込んで設計図だけでも持ち出すつもりだったのだが、村長に後ろから羽交い締めにされた。
「シェン・ラ君。君が飛ぶことに対して情熱を持っているのは分かるが、そのために死ぬのは馬鹿げている!」
「離して下さい。あなたにとって馬鹿げていても、僕にとっては命よりも大切なことなんです!!」
「そのためにお姉さんを悲しませてもか!」
「!?」
「君はただ1人の肉親を悲しませるのか」
 その言葉を聞いて、少年の体から力が抜けた。
 さすがに、自分の夢とたった1人の姉とを引き換えにすることは出来ない。
 村長はそんな少年の体を支えながら、広場へと歩き出した。


 広場にはほとんどの村人が集まっていた。とは言っても元が小さい村だけに、人数は100人程である。
 姿の見えない人は、炎の中で焼け死んだのか、魔法戦士に殺されたのか。
 そしていま、広場は完全に包囲されていた。
 村人は、恐怖に顔をゆがませている。
 不意に、誰かが一歩進み出た。
「私はこの村の村長、ラグラス・デル・ザンです」
 やや青ざめた顔で彼はそう告げると、さらに一歩前に出る。
「私たちは王都への税をきちんと納めています。そのうえ、あなた方は何を望むと言うのですか」
 反応は素早かった。
 まだ燃えている家から炎が矢のように飛び、村長の左腕に命中する。
 肉を焼く嫌な臭いが辺りに立ちこめた。
 村長の左腕は、一瞬にして黒く炭化していた。
「よくも村長を!!」
 いきり立った村の若者が、兵士に近寄る。いや、近寄ろうとした。
 その瞬間、若者の右腕がひじから上を残して吹き飛んだ。続いて左腕。そして、頭……。
 同じ村で一緒に過ごしてきた仲間の死を、村人達はただ呆然と眺めていることしか出来なかった。
「シェン・ラはどこだ」
 初めて魔法戦士が言葉を発した。
 低い、威圧感のある声。まるで感情が感じられない。
 少年の肌は、周囲の目が自分の方を向いていることを痛烈に感じていた。同情、嫌悪、その表情は様々だ。
 が、その感覚は頭まで達することが出来ずに、消え去ってしまう。
 少年の頭を支配していたのは怒りだった。
 自分のために死んでいった村の人。
 彼らを殺したのは誰か。
 答えは1つ。村にやってきた兵士達が、無造作に殺したのだ。つまり、あの兵士達が悪い。
 そう思ったとき、少年の中で何かが目覚めた。
 すでに怒りは体をも支配し、少年が感情の流れに身を任せれば、すぐにでも兵士につかみかかるだろう。
 だが少年の中にある何かは、それを頑強に拒んでいた。
 大きく息を吸う。
 心を静める。
 胸の前で印を組む。
 そして、少年は唱えた。

「恐怖を司る闇の精霊よ。
 あの者達の心を汝らで満たせ。
 あの者達にふさわしきは恐怖と死。
 いま、我に力を貸し与えたまえ。
 我が名は『自然を生きる』シェン・ラ!!」

 一瞬の静寂の後、兵士達は顔をゆがめる。そしてこの世の者とは思えない悲鳴をあげると、大きくのけぞって……死んだ。
 村人は、目の前で起きたことが信じられずにいる。
 その中で、少年は大きく息をはいた。


「シェン・ラ君。君は精霊と会話をする方法を知っていたのかね」
 2日後、すべてが一段落した後で、村長は少年にこうたずねた。
「いえ、別に知っていたわけじゃないです。何か心の奥底から沸き上がってくるものがあって、それに身を任せたらああなったんです。案外、人っていうのは生まれながらにして魔法の素質を持っているのかもしれませんね」
「にしても、魔法戦士全員を一撃で倒すなんて……」
「それは僕の方が驚いてますよ。よっぽど向こうが弱かったのか、僕が強かったのか、どちらでしょうね」
 そう言って、少年はおかしそうにくすくすと笑った。どちらにせよ自分が魔法戦士を倒した事実は変わらない。
 村長の服の左袖が風になびいた。左腕は、あれから切断したのだ。
 その姿を最初に見たとき、少年の心には「自分のせいで」という思いがよぎったが、村長は笑いながら言った。
「なに、腕の1本、かまわんよ」
 その笑顔を見ていると、少年は救われた気持ちになる。
 人々の心に明るさが戻ってきた喜びだ。
 だが、彼には1つの決意があった。
 自分が平民の人たちに精霊との会話の方法を教えよう。そしていつの日か圧制者を打ち倒し、人々が心から安心して暮らすことの出来る世界を創ろう。
 そしてこの澄んだ空を、自分の夢見た大空を次の世代、さらに次の世代へと受け継いでいこう。
精霊と会話をすることが出来れば、自由に空を飛ぶことが出来るようになるかもしれない。
 それは少年の夢が実現するということでもあった。


 数日後、『自然を生きる』シェン・ラは村を後にした。
 彼には使命があった。すべての人を幸せにするという使命が。
誰が押しつけた訳でもないが、少年はいま、自分の進むべき道をはっきりと見つけていた。
 そんな少年を、姉ファウ・ラは夫ラグラス・デル・ザンと共に見送ったのである。
 初夏の風が幸せそうな2人に、そして旅に出た少年に優しく吹いていた。


 それから3日たった。
 荒れ果てた村にも、1つ、また1つと家が建ち始めた。
 草原は焼け野原となったが、人々は知っている。
 近い将来、草が伸びてまた草原を形作るのだということを。
 そして人間社会もまた、悪政という火がつき、人々の心がこの焼け野原のようにすさんでも、いつか必ず希望という芽から草が生えてくる。そしてそれは、人々の心に根付き、一面を覆い尽くして平和という草原になるのだ。
 少年はいま、焼け跡に生えた一本の草となった。
 彼も仲間を増やし、いつしか草原を形作るのだろう。
 そして、それは決して遠い日の事ではない。


〜 Fin 〜

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