その人は何か言った。でも、それは僕の知らない言葉だ。かすかに疑問文らしいことだけが分かる。
「おまえは誰だ」
僕は逆に問い返す。何もかもが謎だった。
例えばこの部屋。何でこんなに狭いんだろう。はっきり言って、見たことのない家具ばかりで、ベッドもない部屋ではろくにくつろげないに違いない。何より、どうやって寝るのだろう。床にごろ寝なのだろうか。
それに色。どうしてこんなに壁が白いのだろう。世の中には白い木なんてあるのだろうか。いや、そもそもこの壁は木ではない。かといって石でもない。まったく未知の物質のようだ。机や椅子、そして服にいたるまで、そのほとんどが今まで見たことのない色だった。
そして僕。そもそも僕は何故ここにいるのだろう。知識神の神殿に勤めている人々の生活する寮。僕はそこの一員だ。二階の方が景色がいいというので人気があるけれど、僕は一階の方が気に入っている。目覚めたときに窓から見える自然。それが四季に応じて移り変わっていく様子は、まさしく自然の神秘だ。地面に近い一階だからこそ、自然を身近に感じられる。
僕が昨晩眠りについたときは、確かに見慣れたいつもの自分の部屋だった。それが、目がさめて頭がはっきりしないまま着替えて、ふと気がつけば見たこともない部屋。不可解と言わずしていったい何だというのだろう。
「驚いたな。君はあっちの人なんだね」
今度は僕の分かる言葉だ。でも、その内容はまったく理解できない。“あっち”とはどこの事なんだろう。それよりも、この人はいったい誰なのだろう。
色白のおとなしそうな男の子。
それが彼を見た僕の第一印象だ。座っていてよく分からないけれど、背は少し高め。でも、やせていて力は弱そうだ。黒い目、黒い髪。どこにでもいそうな平凡な顔つきなのに、どこかひかれるところがあった。15才位のちょっとかわいい男の子。けれど、僕とはどこか違う。
僕と同じ年頃だというのに、彼には生きていくだけの力が感じとれなかった。
この人は世の中でどの様に生きているのだろう。どうやって生活の糧を手にいれているのだろう。僕が今までに見た中では、良家の坊ちゃんがこういう感じだった。
ふと気づいた。彼の目だけは違う。外見とは逆に、その目は老人を思い出させた。すべての事を知り尽くしたような目。何か大きな運命を背負っているような瞳。その瞳は、暗い闇の色の中に深い哀しみをたたえていた。
「君、名前は?」
「ジス」
僕はそれだけ答える。彼の声はどちらかというとアルトで、声だけでは男か女か判断するのが難しい。外見からは男の子だと分かるのだけれど。
「ジス、か。本名は?」
あまりにさりげない質問。けれど、僕はすぐには答えられなかった。
そう。“ジス”というのは一種のコードネームであり、本名ではない。それを、会ったこともないこの人が何故知っているのだろう。
僕の驚愕を読みとったのか、彼は微笑みながら言った。
「ああ、別に僕は君の事を知っているわけじゃないよ。でも、僕はたまたま音楽を少しかじったことがあってね。音階のドレミファソラシは、アルファベットで言えばCDEFGAH。ドイツ語読みすれば、ツェー、デー、エー、エフ、ゲー、アー、ハーとなるわけだ。君の名前の”ジス”っていうのはG(ゲー)の半音高い音の事、つまりG(ゲー)のシャープの事なんだ」
そこまで言うと、ちょっと小首を傾げてみせる。
「君の世界でドイツ語が通用するかどうかは分からないけどね。もちろんこれが本名かもしれない。でも、普通はこんな名前よりももっといい名前があると思うんだ。特に君みたいな女の子の場合は」
見破られた。僕は……そう、“僕”という一人称を使っているけれど、僕は女だ。男の子が将来の夢を語る中で、女の子は“結婚”という選択肢を選ぶことを強要される。それが嫌で、男の子に負けないつもりで男言葉を話すようになった。知らない人なら誰もが男の子と間違える。
今も、男が着るチョッキにズボン。お世辞にも胸は大きくないから、十分“少年”で通用するはずだ。それを、この少年は少し見ただけで見抜いてしまった。
「お前はいったい……」
僕の問いに彼は静かに答えた。
「僕の名前は、野田翔吾」
「今僕たちがいるこの世界と、君のいたの世界は、本来ならばまったくつながりがないんだ」
ショウ−−彼はそう呼んでほしいと言った−−は、僕がこの世界へ来た理由を話してくれた。
「でもある時、この2つの空間に橋をかけた人がいて、それ以来お互いの世界はかなり接近しているんだ。橋、と言うよりはトンネルって言った方が近いかもしれない。それで、君がこの世界に来た理由だけど、たぶんこの2つの空間がほんの少しだけ、それも一瞬だけ重なったんだと思う。つまり君のいた場所と、僕のいた場所が。君がここにいるのにその他の物についてはまったく変化がないことから考えると、重なった空間はすぐに離れて元に戻ったんだろう。その時、空間が元に戻るはずみで君は今ここにいるんじゃないかな」
彼の言うことは、すぐには信じられないことだった。そもそも、自分の住んでいる以外の世界があるなんて考えたこともなかったし、空間同士がぶつかるなんて言うのも、事態が大きすぎて信じられない。
信じられない。そのはずなんだけれど……。
僕は結局すべてを受け入れることにした。何もかも納得できないことばかりだけれど、僕が今ここにいる、そのことがすべてを証明しているような気がする。
もっとも、彼が何故こんなことを知っているのかは謎だけれど。
「君はなぜそんなことを知っているんだ?」
彼が説明を終えた後、僕は彼にたずねてみた。でも、返ってきたのははぐらかすような言葉。
「そのうち時が来れば話すよ。僕がどうして知っていたのかだけじゃなくて、僕のすべてをね」
ショウは悲しそうだった。まるで自分が化物で、それ故に悩んでいるかのようだった。
「なあ、もっと元気を出した方がいいぞ。君のそばにいるだけで、こっちまで気が滅入ってしまう」
僕が、けなしているのか励ましているのか分からないような言葉を口にしたとき、彼の机の上に置いてあった石が宙に浮いた。
透き通るように白くて、2本の指でつまめるくらい小さなその石は、ちょうど椅子に座っているショウの目の前まで移動すると、そこで静止した。彼も慣れているのか、表情ひとつ変えずにその石を人差指と親指でつまむ。
「ショウ? 私、フミです。あなたの学校って今日は創立記念日で休みだったわよね。今通学途中の駅なんだけど、私はこれから学校に行くからよろしく。場所は明治神宮のあたり」
「ねえ、ひょっとして僕以外はみんな学校?」
「え? あ、きゃあ。もう8時15分じゃない。それじゃそういう事だから!」
それきり、石からは何も聞こえてこなくなった。
「やれやれ。せっかく創立記念日だっていうのに。他の人たちが勉強しているときに家でのんびりできると思ったのになぁ」
ショウは深々とため息をつくと、僕の方を向いた。
「君はどうする?」
「え?」
どうするもこうするも、何が起こったのか分からないのでは話にならない。そんな僕の考えが表情に出たのか、彼は説明してくれた。
「今のは僕の友達のフミからの通信なんだ。ああ、この石は通信石っていって、上下を2本の指で少し強くつまんで、石を持っている他の人をイメージするとその人と話をすることが出来るんだ。それで、明治神宮……って言っても分からないか。とある場所に怪物が出たから倒してほしいんだって。」
それでもよく分からなかったが、とりあえず納得。
「君もくるかい?」
ショウの問いに僕はうなずく。こんな所に一人で放り出されてもどうしていいのか分からないのだから、彼について行く方が賢明だろう。
「君のその格好は目立つなぁ。僕のTシャツとGパンを貸すから、それに着替えて。僕は後ろを向いているから」
そう言って渡されたのは、前になにやらよく分からない文字と絵の入った半袖の白いシャツに、少し厚手で濃い青色のズボン、それと同じ色のチョッキだった。同年代の異性の目の前で着替えることはためらわれたが、今はそれどころではないと思い直して、新しい衣服を身につける。
「なあ。この金具は何だ?」
「もういい? ああ、これはチャックだよ。ちょっと失礼」
そう言うと、彼はその金具を動かした。がら空きだった前がきれいに閉じる。軽く動いてみたが、特に違和感もなくなかなか動きやすい。
ショウの方は、少し灰色がかったシャツに、僕と同じく濃い青色のズボンとチョッキという格好だった。机の上にあった小物をいくつかポケットに入れている。
「これでよし、と。そっちもいい?」
僕は無言でうなずく。
「あんまり急いで行かなくてもいいのかな。彼女も“すぐ来て”とは言ってなかったし。よし、電車だな。鷺ノ宮駅から高田馬場駅まで行って、原宿駅までJRか。290円だったかな? あ、そうか。ジスの分もあるから580円。往復1160円か。高いなぁ……。ま、いいか。それじゃ行こう」
それからは驚きの連続だった。
いたるところにある石造り(本当は石ではなく、“こんくりいと”というものらしい)の建物。完全に舗装されている道(“あすふぁると”というもので舗装されているそうだ)。それに、“自動車”という動く箱(これは人が中に入って動かすらしい)。さらには“電車”というとても大きくて長い箱。その箱の中から見た、天まで届くかと思うほど大きな“びるでぃんぐ”。
「なあ」
箱を乗り換えるとき、僕はたまらず口を開いた。
「この世界って、どこもみんなこんな感じなのか?」
「え、どうして?」
「なんだかせわしないぞ。君も含めてどの人にも生きていく気力が感じられない。ただその日その日を単調に繰り返してるみたいだ。まるで機械みたいだな」
僕がそういうと、ショウは一瞬反論しかけて、少し悲しそうな表情をする。「それ、当たってるよ」
そう言った時の彼の表情は、世界中の重荷を一人で背負っているかのような、重く苦しそうなものだった。
「僕たちこの世界の人間は、すでに進化の袋小路にはまりこんでしまったんだ。君の言った通り、この世界の人間たちは生きる喜びをなくして、生きる意味を見失いかけてる。毎日が単調な作業の繰り返し。まるで働き蜂だよ」
僕は何も言えなかった。この人たちは、毎日が単調でも飽きないのだろうか。何かを感じないのだろうか。
彼は周囲に聞かれないように小さくしていた声を、いっそう小さくして続けた。
「もちろん気づいている人だっているよ。家庭でのゆとりを大切にしようとか、子供を勉強だけに浸さないようにしようとか。でも、少なすぎる。それに、そんなことは周りから強制される事じゃないだろ。だからといって、自分で気づくのを待っていたら、たぶん間に合わないだろうな」
「間に合わない?」
「そう。人間は自然からはみ出た異端者になりつつある。そのうち自然の方が黙っていないよ。それに……」
どこか遠くを見つめる瞳。その時、彼はその視線の先に未来を見ていたのだろうか。
「それに、人間は自滅していくのさ。戦争もそうだけど、何より種としての終わりが近いような気がする。ジス、君の世界では女の人は何人くらい子供を産むの?」
「え? 3から5人だけど」
「だろうな。僕のこの国だと、1から2人だよ。もちろん例外もあるけれど、大多数がこの範囲だ」
「でも、それだと人口が減っていかないか?」
「この国ではね。世界全体だと逆に増えすぎて、食料生産が間に合わないくらいさ。……降りよう、着いたよ」
箱についている扉が自動的に開き、大勢の人々をゴミのように吐き出して再び閉まる。
「僕たちの世界はあちこちに問題をかかえているのさ。重病人だよ」
“きっぷ”とかいう紙切れを自動的に吸い取る機械を抜けると、ショウは僕を先導しながら、また口を開いた。
「どこか別の世界に逃げだしたいな」
僕には話が難しすぎてよく分からなかったが、ショウの口調から、かなり深刻な状態であることは理解できた。そういえば、今まで木々の緑をあまり見ていないような気がする。地面も土ではないし。
《自然に見捨てられた世界》
それが僕のこの世界に対する印象だった。
「ほら、見てごらん」
石造りの橋を渡った僕の目の前に、緑の鮮やかな森が広がっていた。さっきまでの印象をすべて打ち消してしまうような大きな木々。無意識のうちに感嘆の声をあげてしまう。
「なんだ。自然ならちゃんとあるじゃないか」
「こんな風に自然のあるところなんてまずないよ。ここは一種の例外さ」
「でも、あるにはあるんだろ」
「まあ、ね」
自然を見て感激してしまった僕は、なんとかしてショウの悲観的な考えを変えようとしてみた。自然がある限り、人間だってきっと生きていけるはずだという確信が僕にはあった。
と、急に彼の目が細くなった。森の奥を見据えている。
「いた……」
「あ、待てよ!」
走りだしたショウを追って、僕は森の中へと入っていった。
森の中にはとても広い砂利の道があった。途中にある小さな気の橋の上で、ショウは立ち止まっている。
「周りには誰もいないから出ておいでよ。それともあぶりだされたい?」
彼の声に答えるかのように、木々がざわめく。やがて、ざわめきは一つの音になった。葉と葉のこすり合わせによって生じる音は、耳障りで頭に響く。
耐えかねて僕は耳をふさいだが、ショウの方はまったく動かない。
1分……2分……。
時だけが静かに過ぎていく。
7分……8分……来た!
耐えられなくなったのだろう。木の上から何かが飛び降りてきた。
「ふぅん、それが君の姿ってわけだ」
それは1匹の狐だった。目は異様に赤く輝き、尾は僕たちを挑発するかのようにゆっくりと振られている。
「遠慮する必要はないみたいだね」
そう言うと、ショウはズボンのポケットをさぐって何か小さな物を取り出し、それを握りしめながら小声で数語つぶやく。
一瞬彼の手が内側から輝いたかと思うと、次には大きな杖が現われていた。オレンジ色に輝くその杖は、ショウの身長よりも頭1つ分大きい。また、ずっしりとした重量を感じさせながら、羽毛のように軽そうでもある。
両手で杖を構えながら、ショウはじりじりと前進した。押されるかのように後退する狐。杖を構えたショウは、今までとは違い、迫力があった。狐の方もそれを感じたのだろう、からかうかのような行動は陰をひそめ、一撃を打ち込むために体勢を低くして隙をうかがっている。
次の瞬間、僕は目を疑った。狐が小さく身震いしたかと思うと、全身の色が白く変化する。同時に尾も9本に増えていた。
尾を9本持った、全身の白い狐。
それは妖しい美しさを持った獣だった。
「九尾の狐か」
ショウがうめく。彼にとっても意外なことだったらしい。
「ジス、下がって」
その一瞬。ショウが後ろにいる僕に視線を走らせた一瞬を、狐は見逃さなかった。
それは1秒の何分の1という短い時間でしかなかったが、狐にとっては絶好の、ショウにとっては痛恨の一瞬だった。
その一瞬、狐はショウに向かって飛んだ。ショウもとっさに両手で杖をふるう。
狐の爪はショウのわき腹をえぐり、ショウの杖は狐の体をとらえていた。
『駄目だ!』
ショウの杖は確かに狐の体をとらえてはいた。でも、とらえた位置が体に近すぎた。てこの原理を持ち出すまでもなく、杖をふるったときに最も威力があるのは先端だ。ショウの杖は、体のすぐ近くで狐をとらえていた。
血しぶきが舞った。
狐は空中で体勢を整えると、ショウに攻撃されたことなどなかったかのように着地する。対称的に、ショウはわき腹を押さえてうずくまっていた。
ショウと僕との間で、狐は不敵に笑った。笑ったように見えた。
僕は右手に砂利をつかんで軽く腰をかがめる。
僕の事を大した相手ではないと思ったのだろう。狐はすぐに動いた。ショウに傷を負わせたように、鋭く飛び込んでくる。
「させるか!」
右へ倒れ込んで避けると同時に、右手につかんだ砂利を投げつけた。それが命中したかどうかを見るより早く立ち上がる。
そこには何もいなかった。あたりを見回したものの、人一人として見あたらない。
『逃げたのか?』
吹き抜ける風以外、感じるものは何もなかった。
「……ジス」
「ショウ! 大丈夫なのか?」
振り返ると、そこには杖にすがるようにして立っているショウの姿があった。
「一回、家に戻ろう」
「え?」
確認する間もなく、ショウは杖をふるいながら何かをつぶやいた。
気がつくと、そこは白い小さな部屋だった。
「ここは?」
「僕の部屋だよ」
そう言われれば見覚えがある。家具の多さ、壁の色、部屋の狭さ……。
「あ、そういえば」
不意に思い出した。ショウはわき腹に傷を負っていて、まだ応急処置すらしていないはずだ。
「動かないで! いま直すから」
ショウは、急に僕が大声をあげたので驚いた様子だったけれど、僕はそれを無視して彼の傷口に手をかざす。
「偉大なる我が知識神よ。その力でこの者の傷をいやしたまえ」
神の力を借りて、様々な奇跡を行なうのが僕の使う魔法の姿だ。神の力は偉大で、多少の傷なら、たちどころにいやしてくれる。
「え? 失敗した?」
僕の祈りが神に通じなかったのか、それとも神が僕を見限ったのか。ショウの傷は少しも変わった様子を見せなかった。
「それは無意味だよ」
ショウはそう言うと、弱々しく数語つぶやいた。傷口がみるみるふさがっていく。
「何故? 僕がやったときは治らなかったのに」
「君の魔法は神様にお願いして力を貸してもらうんだろう?」
「何で知ってるんだ?」
「呪文の文句で分かった。でも、この世界には神様がいないんだ。いたとしても、君の世界にいるのとは別の神様なんだ」
《異世界》
その言葉が僕に重くのしかかっていた。この世界にいる限り、僕はお荷物でしかない。魔法が使えず、何も分からないということは、僕に精神的な苦痛を与えていた。
それに比べて、ショウは呪文を自由に使っている。森の中からこの部屋への瞬間移動。いま目の前でやってみせた治癒魔法。周囲が無気力にせわしなく動き回っている中で、彼は明らかにそういった人々とは違っているように見えた。
「君の魔法はどうして効果があるんだ?」
「僕の使っているのは神様に頼むのじゃなくて、大気中にほんの少しだけ含まれている、とある物質を媒介にしてかけてるんだ。つまり、呪文のシステムが違うんだよ」
「なるほどな。どこで覚えたんだ?」
何気ない質問。僕は何かを意図したわけではなく、ただなんとなく聞いただけだった。でも、ショウの表情には困惑の色がみるみるうちに広がっていく。
ショウは何かを言おうと口を開いたけれど、その口からはただうめき声がもれただけ。僕も、してはいけないことをしてしまった子供のように、ただ黙っていた。
「ねぇ。その前に君の事を少し話してくれない?」
「どうしてだ?」
「お願い」
ショウはそれ以上何も言わなかった。なぜ僕に先に話をさせたいのかは分からなかったが、僕の話がショウになんらかの影響を与えるであろう事は確実なようだ。
「話すって言っても、何を話せばいいんだ」
「何でもいい。君の生い立ちとか。とにかく自己紹介をするような感じで」
「僕の名前はジス。15才。何かの理由で6才までの記憶がない。本当の両親は不明。養父母に育てられた。養母の推薦で、知識神の神殿で下働きをしている。……これでいいのか?」
語り終わった僕を、ショウは驚きを込めた目で見ていた。それは、驚愕とは少し違う、懐かしさを伴った驚きであるような気がした。
その予想通り、ショウの第一声は「懐かしいなぁ」だった。
「そうか、あの2人に育ててもらったのか」
「知ってるのか?」
僕はショウの胸元をぐっとつかんで聞く。関係ない別の世界の住人をどうして知っているのか。この人はいったい……。
「ねぇ、少し落ちついてよ。これじゃあ、まるで君が僕を押し倒してるみたいじゃないか」
「え? あ、ごめん」
僕はあわてて手を離すと、元の位置まで戻った。“ざぶとん”とかいうクッションの上に座り直す。
『やだ。何照れてるんだろ』
顔が火照っているのが、何もしなくても分かった。おそらく耳の先まで真っ赤だろう。男の人とあんなに接近したのは初めてだったから、そのせいかもしれない。
ふと見ると、ショウの方も顔が赤かった。
「あー。実は君の養父母は、僕の友人なんだ」
まだドキドキしていたのが、一気にさめた。この人は何と言った? 僕の養父母が彼の友人?
「信じられないだろうけど聞いて。僕は君の世界に行ったことがあるんだ。その時あの2人にはお世話になってるんだよ。彼らには娘さんがいるだろ?」
こく。当たっているので、僕は軽くうなずく。その子と僕は、実の姉妹のように育てられたのだ。
「そうか、思いだした。君は食事を運んだりしていた子だ。てっきり使用人かと思っていたけど。そうか、養子だったのか」
そう言われて、僕の方もおぼろげながら思いあたることがあった。「珍しいお客様だから、そそうのないように」と言われて、食事を運んだのだ。あの人は3、4日滞在すると、養父母と一緒に出かけて、2度と会うことはなかった。
あまり興味を抱かなかったから、養父母が帰ってきた時点で何もかも忘れてしまっていたのだ。
「懐かしいなぁ。また行ってみたいや」
「行けば?」
「そう簡単に行けたら、こんなに悩まないよ」
『でも、さっきは瞬間移動をしたじゃないか』そう言おうとするのを、ショウは手でさえぎった。
「瞬間移動は、異なる空間へ行くことは出来ないんだ。別の空間へ行こうとするなら、その空間とこの空間を結ぶ、一種のトンネルを掘る必要があるんだよ」
「じゃあ、それをすれば……」
「してもいいよ。たぶん成功するだろうね。でも、その後一ヶ月は呪文が唱えられないと思う。それほど体力を消耗することなんだ。僕にはこの世界の生活がある。一ヶ月も向こうでのんびりするわけにはいかないよ」
ショウのその台詞は、何かが引っかかった。具体的にどの部分がそうなのか、僕には分からなかったが。
ショウは天井まで届きかけている杖を小さくすると、ポケットに詰め込んだ。そのまま机に向かうと、何かの本を取り出してそれを読み始める。僕は何だか取り残されたような気がして、不安になった。あたりには静寂が漂っている。
「なあ」
「ん?」
気のない返事。意識は本の方へ向いているようだ。それでもかまわずに、僕は話し始めた。
「僕の6才より前の記憶ってどんなのなんだろう。何で忘れてしまったんだろう。僕は、もう少し大人になったら、失った記憶を探すことにしているんだ。そうしたら、きっと本当の両親や自分の本当の名前も分かると信じてる」
「本当に何も覚えてないの?」
「うん。何度か思いだそうとしたんだけど、駄目だった。決って頭痛がするから、考えるどころじゃなくなるんだ」
一瞬ショウの肩がぴくっと動いたように見えたのは気のせいだろうか。さっきとは逆に、彼は本の方を向いてはいるものの、僕の言うことに耳を傾けているような気がする。
「さっきの狐は何だったの?」
僕は話題を変えることにした。さっきの狐、ショウは“九尾の狐”と言っていたけれど。
「悪霊の一種だよ。あれは本当の姿じゃなくて、仮の姿」
「放っておいていいのか?」
「ちょっと脅しをかけたから大丈夫だろう。あの手の奴は、実は臆病だからね」
ふぅん、と相づちをうちながら、僕はあの赤く輝く目を思いだしていた。あの目からは、とても臆病なんて単語は出てこないのだが。
再び静寂があたりを包んだ。
静かだ。まるで人間なんていないかのような静けさだ。
人間なんていないような?
「なあ、御両親はどうしてるんだ? この家の中からは気配が感じられないが」
「ああ、内は父親が単身赴任だから。母親の方も今会いに行ってるし」
「“たんしんふにん”?」
「言い替えれば出稼ぎかな? 少し違うような気がするけど」
よく分からなかったけど、とりあえずうなずく。と、おなかがなった。そういえば、朝食を食べていないのにもう昼だ。
「なに、おなかすいた?」
『聞かれてた』ということに僕は思わず真っ赤になりながら、首を小さく縦に振った。
出てきた食事は米だった。エビやにんじんなどが入っていて、なかなかおいしい。なんでも、“えびぴらふ”とかいう食べ物だそうだ。
そしていちばん驚いたのは“てれび”とかいう箱だった。
箱の中で小さな人間が何やら話している。「これは、箱の中に人がいるんじゃなくて、別の場所の映像をここに映しているんだ」とショウは説明してくれたが、なにがなんだか分からない。とりあえず、この人間はまやかしだということで納得することにした。
と、不意にショウの表情が引き締められた。僕が何の事か分からずにきょとんとしていると、彼は黙って“てれび”を指さした。そこにはあの森と、倒れている人々がいた。
「ジス。あいつを放っておいたのは失敗だったみたいだ。奴はすでに活動を開始してる。急いで行かないと手遅れになる」
ショウはそう言うと、杖を大きくして数語つぶやく。
一瞬の後、僕たちはあの森にいた。
ひどいありさまだった。人々は肉をえぐられ、見るも無惨な姿をさらしている。どこからともなくカラスの群れが集まり、死肉をつつく。ざっと見ただけで、倒れている人は30人以上。カラスの方は、数える気もおこらないほどだ。
そして、その中心に奴はいた。返り血を浴び、白い体毛の中で無数の赤が複雑な模様を描いている。
木々がざわめき始めた。
ショウと狐は、じっと向かい合う。
どれだけの間、そうしていたのだろう。永遠にも思える沈黙を破ったのは狐の方だった。
「キイッ!」
甲高い声で叫ぶと、ショウへ向かって飛びかかる。
「同じ手を2度は食わないよっ!」
軽く身をかわしたショウを横目に見つつ、狐はそのまま僕の方へ向かってきた。突然の事に避けることも出来ず、僕の右肩からは盛大な血しぶきが上がる。
「ぐっ」
「しまった! ジス、大丈夫か」
『大丈夫なわけないだろ』そう言おうとしたものの、痛みがひどくて声にならない。肩を押さえて座り込んだ僕をかばうように、ショウは再び狐と向かい合う。
「大地よ。その力を以て、奴の行動を奪え」
と、その声に応じるかのように、狐の足元の土が大きく盛り上がった。そのまま四本の足をとらえて離さない。
「グアァ!」
狐は何とかふりほどこうと身をよじるけが、土はびくともしない。やがて諦めたのか、ずいぶん静かになった。
「そうそう。おとなしくしてれば命まで取ろうなんて考えないよ」
狐に歩み寄るショウ。突然、狐の口が大きく開かれた。
グオォ!
吐き出される炎。一瞬にして見えなくなるショウの姿。炎は、後ろにいた僕にまでその舌をのばしていた。
「ぐうぅ!」
とっさに両手を交差して顔をかばったものの、その手や投げ出していた足は炎の直撃を避けられない。一瞬にして表面が黒く炭化した手足を、僕は他人ごとであるかのように眺めた。
『ショウは?』
そう思って顔をおこすと、杖を正面に構えた彼の姿が目に入った。傷を負ったような気配は全くない。
「そこまでして僕に本気を出させたいの?」
ショウの、怒りを押し殺した低い声。
「風よ。その力を以て、奴を切り裂け!」
彼の言葉は突風を巻き起こした。突風はかまいたちとなって狐の体を切り刻む。体毛におおわれたその体から、どす黒い液体が流れ出た。おそらくそれが奴の血なのだろう。
狐は九本の尾をふり上げて反撃しようと試みたようだったが、やがてその尾も一本、また一本と力なく垂れ下がり、やがてぐったりと動かなくなった。
「ジス、大丈夫?」
それを確認してから、彼は僕の方へ駆け寄ってきた。「すぐに治してあげるからね」と言って、呪文を唱える。手足の痛みが、肩の痛みが嘘のようにひいていく。
「まあ、何とかね」
僕は彼の手を借りて立ち上がった。立ち上がって最初にみたのは、あの狐がこちらをじっとにらみつけている姿。
「ショウ、後ろ!」
思わず彼を突き飛ばす。そして、飛びかかってきた狐を回し蹴りでとらえる。
「ギャン!」
犬のような声を出して、奴は道端に転がった。なおもこちらをにらみつけていたが、急速に瞳の色が失われていく。それと同時にその体が薄れ始め、やがて、消えた。
「なあ、あれは何だったんだ?」
完全に消えたのを確認してから、僕はショウにたずねた。
「あれはこの世界のひずみが生み出した怪物だよ。怒り、妬み、絶望。それらのやり場のない感情が、ある時一ヶ所にたまることがある。あいつもそうして生まれたんだ。血の色を見た? あの黒さは人間の感情の色だよ。もしも喜びや希望から生まれたのなら、もっときれいな色をしていただろうね」
僕は何も言えなかった。ついさっきまであんなに憎んでいたのに、今では同情している。生まれたくて生まれたんじゃない。あんな行動をしたくてしたんじゃない。すべて人間がやらせたことなんだ。
「この世界はね、今見たみたいな感情が多いんだ。彼らは人間に対する警告なんだよ。人間の内面の醜さを表わしているんだ。人間の記憶から様々な形を取る。多いのは狐かな。昔から人を手玉に取る逸話が多いからね。さっきのは、九尾の狐なんて姿を取れただけ、よこしまな思いが強かったんだよ。でも、警告だということに気づいている人は少ない。彼らが表通りを歩くようになってからじゃ遅いんだ。今なら僕が何とかするけど、もしそうなってしまったら……人間は彼らに殺されるだろうね」
ショウは悲痛な面もちで、言葉を吐き出していた。自分では分かっていても、他人に分かってもらえないつらさがにじみでていた。
「帰ろう」
最後に、彼は微笑みながらそう言った。
「あの木々のざわめきは、敵をあぶりだすと同時に人を近づけない、一種の結界の効果があったんだ」
さっきの重苦しい雰囲気を何とか振り払おうとして、2人はよく話した。僕は自分の世界の事を、ショウは彼の世界の事を。
「君の記憶の事だけれど」
不意にショウはこう切り出した。
「たぶんそれは、封印されてるんだと思う。考えようとすると頭痛がするっていうのは、封印が働いているからだよ」
「封印? だとすると、かけたのは誰なんだ?」
余りに突然の話に、僕は驚いてしまった。まして、それが封印となるとなおさらだ。
「これはあくまで推測でしかないけれど、君の養父母だと思う」
「どうして?」
僕には何がなんだか分からなかった。自分は養父母にだまされていたのだろうか。
ショウは僕の両肩に手をおいて、ゆっくりと話した。それはおそらく、僕を落ちつかせようとして行なった事なのだろう。
「何かは分からないけれど、6才以前に君は心に傷を負っていたんじゃないかな。君を引き取ったときに2人は相談して、その記憶を封印することにしたんだと思う。君が将来、苦しまないように。もっとも君は逆に、記憶がないことで苦しんでいるのだけれどね」
そうだったのか。養父母が6才以前の事を話そうとしないのは、僕の事を心配していてくれたからなのか。
気がつくと、視界がゆがんでいた。何か熱いものが頬を伝っている。それが涙であることに、僕はしばらく気がつかなかった。
「ショウ……それでも、僕、探すよ……。本当の、両親の事、知りたいし、本当の、僕の名前、知りたい……。でも、いつも、反対、される……」
「いつか君が、どんな過去にも負けないだけの精神力を身につけたら探せばいい。まだ少し早いよ。君は傷つきやすい思春期だ。もしその時が来れば、君の養父母だって反対しないよ、きっと」
ショウは優しくそう言った。とても同じ年頃の少年だとは思えなかった。
「ショウ!」
僕は思わずショウに飛びついて、その胸で泣いた。いままでこんなに頼れる人はいなかっただけに、自分のとった行動に驚いた。
「ジス。いつか記憶を取り戻す日が来ることを信じてるよ。君が過去に負けないことも……」
泣いていいのか笑っていいのか分からず、僕はショウを見上げた。彼は黙って僕の頭をなでる。
「うん」
結局、僕は笑ってうなずいた。
「そろそろ帰らないとね」
ショウは、僕が落ちつくのを待ってそう言った。狭い部屋の中で、杖を使わずに手で印を結びながら呪文を唱える。
しばらくして、壁が揺らいだかと思うと、そこに黒い空間が現われた。
「これに入れば元の世界に帰れるのか?」
僕は、泣きはらした顔でショウに聞く。
「そう、一瞬だよ。ただ、どこに出るか分からないけどね。でも、君に聞いた場所から1キロ以上離れることはないと思う」
「帰りたくないな」
不意に、自分でも予期しない言葉。
「どうして?」
「だって、せっかく別の世界に来たのに、また元の閉鎖空間に戻るなんて……僕は、いやだよ」
僕がそう言うと、ショウは僕の目をのぞき込みながらこう言った。
「本当にそう思ってる?」
「え?」
彼の言葉の意味がつかめなくて、僕は聞き返す。
「それを言うなら、ここだって閉鎖空間だよ。でも、たとえ閉鎖されていても、トンネルを掘れば別の世界に来れるってことが分かったよね? それに、閉鎖空間と言っても、そんなに狭いものじゃない。僕のこの世界では、月まで行った。そして、もっと先まで行こうとしてる。君の世界だって、まだだれも行ったことのない場所は多いはずだし、誰も知らないことだってたくさんあるはずだよ」
「うん」
「ね。わがままを言わないの」
ショウは子供をあやすような感じで言う。
「だったら、君の方が僕の世界にこない?」
この世界に絶望しながら、それでもこの世界にとどまる理由。それが僕の心に引っかかっていた何かの正体だと、いま分かった。
「ごめん。そうはいかないよ」
彼はつらそうだった。絞り出すように言葉を続ける。
「この世界は確かに絶望的だよ。でも、僕には友達がいる」
「だったら、その人たちも一緒に」
「そうはいかないよ。彼らには彼らの友達がいる。それを全員連れて行くと、いったい何人になるか分からないよ。それに」
ショウはそこで一息ついた。その目は、闇の中でたったひとすじの光を見つけたように輝いていた。
「それに、この世界にだって自然はあるんだ。いつもは悲観的に考えていても、いざこの世界を見捨てるとなると、あれだけ少なく感じられた自然が、とても大きく感じられるんだ。捨てるにはまだ早いよ。ごめん。君の申し出はうれしいけれど、やっぱり僕には他のどの世界よりも、この世界が一番大切なんだ」
確固たる決意。僕はそれ以上何も言えなかった。けれど、一つだけ確認したいことがあった。
「また、会えるよな」
「会いたいときはいつでも、というわけにはいかないけどね」
彼は笑って右手を差し出した。僕も微笑んで右手を差し出す。
「いろいろありがとう」
「うん。元気でね」
「あ、そうだ。ショウって、初めて会ったときに比べてだいぶ明るくなったな」
「そう? もしそうだとすれば、それは君のおかげだよ」
それが僕らの最後の会話だった。いつかまた会う日まで、この会話は最後の会話であり続ける。
でも、いつか。
いつか必ずそうでなくなる日がくることを、僕は信じている。
ショウの右手は、大きくて温かかった。
数日後、僕はショウの夢を見た。
夢の中で、ショウは友達と一緒に戦っている。
戦いが終わると、ショウと友達は僕の方に向かって手を振っていた。
気がつくと、全員が手に花束を持っている。あの黄色い花は、菜の花だ。
ショウの合図で、全員が花束を空へ投げた。
青い空の中に、黄色い花が舞う。
次の日の朝、窓の向こうから、菜の花の柔らかい黄色が、僕の目に飛び込んで来た。
〜 Fin 〜
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