★今までとりあげた曲 ★結成までのあゆみ 【ひびとも会合唱団とは・・・?】 結成時期:1998月8月 結成時のメンバー:Soprano 3名 Alto 6名 Tenor 7名 Bass 14名 活動内容:混声合唱(主に日本語曲)を中心に約月一回都内で練習中。 【今までとりあげた曲】 《日本語曲》 荻久保 和明 「季節へのまなざし」より「みのる」 荻久保 和明 「ゆうべ、海を見た。」より「八月」 多田 武彦 「京都」より「ここが美しいそれは・・・」 多田 武彦 「白き花鳥図」より「黎明」「老鶏」「白牡丹」 中田 喜直 「夏の思い出」 新実 徳英 「聞こえる」 新実 徳英 「幼年連祷」より「憧れ」 林 光 「ねがい」 柳田 義孝 「若い冬」より「冬のまつり」 新実 徳英 「祈りの虹」より「ヒロシマにかける虹」 高田 三郎 「水のいのち」より「川」 木下 牧子 「方舟」 木下 牧子 「うたよ!」より「おんがく」「きこえてくる」 鈴木 憲夫 「雨ニモマケズ」 鈴木 憲夫 「民話」より「でんせつ」 「雪の降る夜」 荻久保 和明 「How old am I?」より「The Woman」 木下 牧子 「鴎」 新実 徳英 「やさしい魚」より「感傷的な唄」「やさしい魚」 荻久保 和明 「IN TERRA PAX」より「花をさがす少女」「IN TERRA PAX」 三善 晃 「朧月夜」 三善 晃 「地球へのバラード」より「地球へのピクニック」 鈴木 憲夫 「永久ニ(トコシナニ)」 武満 徹 「小さな空」「島へ」「死んだ男の残したものは」「翼」 国枝 春恵 「夕の虹」(ゆうべのにじ)より「白い一輪」「母の声」 松下 耕 「そのひとがうたうとき」より「そのひとがうたうとき」 木下 牧子 「光と風をつれて」より「いっしょに」「はじまり」 鈴木憲夫 「未来への決意」より「決意」 團 伊久磨 「海上の道」より「夜の海」 信長貴富 「新しい歌」より「うたをうたうとき」 信長貴富 「新しい歌」より「一詩人の最後の歌」 「琵琶湖周航の歌」 「サリマライズ」 小林秀雄 「落葉松」より「落葉松」 信長貴富 「思い出すために」より「種子(タネ)」 川崎絵都夫 「夕暮れの情景」より「鳩」 信長貴富 「こいうた」より「恋よぼくらふたりの…」 高田三郎 「水のいのち」より「海よ」 信長貴富 「しあわせよカタツムリにのって」 信長貴富 「砂山」 新井満 「千の風になって」 田中利光 「青猪の歌」より「みちのく」 鈴木憲夫 「ほほえみ」 より「朝に」「めぐりあいの中に」「茜の空に」「憧れ」「ほほえみ」 尾形敏幸 「風に寄せて」 《外国曲》 アルカデルト 「アヴェ・マリア」 モーツァルト 「アヴェ・ヴェルム・コルプス」 マスカーニ 「カヴァレリア・ルスティカーナ」より「オレンジは香り」 Johannes Brahms 「Nanie」 フォーレ 「ラシーヌ雅歌」 P.Casals 「Nigra Sum ( I am black )」 フォーレ 「LIBERA ME」「AGNUS DEI」(レクイエムより) プッチーニ 「MESSA DI GLORIA」より「Kyrie」 F.マルタン 「ダブルコーラスのためのミサ」より「Kyrie」「Credo」 モーリス・デュルフレ 「4つのモテット」より「Ubi caritas」「Notre pere」 パーセル 「Man that is born of a woman」 A.L.Webber 「Pie Jesu」 ブルックナー 「Ave Maria」 アルビノーニ 「Adagio」 【結成までのあゆみ】(浜之上亙美さん記) 『ひびとも夜明け前』 1.つぶやきから・・・ 1997年7月、それは暑い夏の午後、某合唱団のコンサートを聴きに 行った日だった。 私と啓ちゃんは釈然としない気持ちで東京・紀尾井ホールを後に したのだった。 「なんで、合唱がいきつく所ってああゆう感じになるんかなあ」 ああゆう感じ、とは、ヴォーカリーズや語りを中心としたシアターピース のことである。 要するに素人にはちょっと敷居が高い世界である。 「きれいなハーモニーとか、美しい言葉とか、そんなんではあかんのかな?」 「・・・私らもまた、昔みたいに歌いたいね」 「こっちにいるOB・OGに声かけて、一日でもいいから合唱やろうよ」 「いいねー、絶対やろう」 この二人の主婦のつぶやきから全ては始まった・・・・ 私と啓ちゃんはかつて、関西大学混声合唱団ひびきという合唱団に 在籍していた。 現在はそれぞれの事情で関西を離れ、合唱からも遠ざかって いたのだが、卒業から7年を経ても歌いたい気持ちは失われて いなかったのだ。 同じ気持ちを抱いて東京で暮らしているOB.OGはきっと少なからず いるはずだ。そう確信した私たちは、関東にいるOB,OGに片っ端から 声をかけることにしたのである。 当初の目的は、ただ1日だけ集まって同窓会気分で歌えればいい、 という漠然としたものだった。 たまたまこのアイデアをやはりひびきの同期である琴ちゃんに 話したところ、 「それなら、合唱祭にでもでてみればええやん。」と提案されたのだった。 「そんなことできるの?」 「私も高校の合唱部のOB,OGで合唱祭の前だけちょこっと集まって 練習してステージにのるっていうのを何回かやったけど楽しかったよ。 東京でもできるんちゃう?」 こうして、この計画は1998東京都合唱祭参加プロジェクトとして いよいよ発動したのであった。 2.勇気を出して・・・ 私が始めに手紙を出したのが、かつてひびきで指揮者をされていた 谷先輩である。 このプロジェクトの指揮者を引き受けていただきたいという趣旨の 手紙を送ったのはいいものの、果たしてこんな提案を快く受け 止めてくれるんだろうかという不安でいっぱいだった。 だがそれは杞憂に過ぎなかった。谷先輩は二つ返事でOKして 下さり、また、同期の方々にも声をかけたところ、ぜひやろうという ことで力を貸して下さるというのである。 私がとびあがらんばかりに嬉しかったのはいうまでもない。 その間にも、啓ちゃんはやはり同じくひびきOBである夫のみーまんと ともに、いろいろなつてを使って関東に散らばっているひびきの 関係者達に声をかけていった。 3.一石の波紋 1999年2月1日(日)午後1時、池袋にある豊島区青年館の視聴覚室 には関東在住のひびきOB,OGが次々に集まってきた。この練習場所 は谷先輩の同期の慎二先輩が探してきて下さったところで、 狭さといいひなびた感じといい、大学時代に練習していた第一音楽室 によく似ていて可笑しくなってしまった。 懐かしい顔ぶれの他にも、私たちが入学する前に卒業されていった 方や、またつい2年前に卒業されたばかりという若い方もいた。 中には連絡をとった覚えのない方もいて、尋ねてみると谷先輩と 面識の深い作曲家の鈴木憲夫先生から昨夜遅くに電話をいただいて、 わけもわからないままやってきてくれたのだった。 私と啓ちゃんは、自分たちの投じた一石の波紋の大きさにあらためて 驚いたのだった。 こうして第1回目の練習が始まった。 それは予想以上に楽しく充実した一時だった。歌を介在にして 初対面の方達とも久しぶりに会えた方達ともすんなりとなじんでいく のが心地よかった。もちろん、参加している全ての方達がそういう風に 感じていたかどうかは分からなかったけれど、少なくとも私と啓ちゃんは とても満足だった。 4.走りはじめてみると・・・ こうして私達は再び歌いはじめた。 2月から7月の合唱祭本番までの間、月にたった1回という少ない 練習だったけれど毎回の練習が待ち遠しくて仕方がなかった。 練習も回を重ねるごとに、ひびきOB,OGi以外の方も含めて参加して くれる方が増えてきて、なんだかいっぱしの合唱団のようになって しまった。 内実は、音楽のことは谷先輩に任せっきりで、合唱団運営経験の まったくない私と啓ちゃんにとっては何もかも手探りで戸惑うことも 多かったのだけれど・・・。 合唱祭まで半年という準備期間は、長いようでいて実はあっという 間に過ぎ去ってしまう。 ともかく私達はやるしかなかった。 5.「ねがい」がかなうとき 合唱祭出演にあたって重要なことの一つに曲選びがある。 ブランクも長く、さまざまな人で構成された、にわか合唱団でも歌える 曲を考えるのは至難の技だった。 「とりあえず、歌ってみよう」ということで谷先輩がもってきて下さった 曲を何曲か練習していくなかで、最終的に曲が決まったのは98年の 4月頃だっただろうか。 「ねがい」という曲は、谷先輩が持ってきて下さった曲ではなかった。 私達がみんなにこのプロジェクト参加を呼びかける際に、歌いたい曲 の提案をお願いしていたのだけれど、曲名があがったのは同期の 伊藤君が提案してくれた「ねがい」1曲だけだったのだ。 この曲は、私達が大学3回生の時の定期演奏会のアンコールで 取り上げた曲で、詩も旋律も美しく、大好きな曲の一つだった。 ただ、この曲の楽譜は出版されていないことと、ピアノパートが難しく、 高い技術を持ったピアニストを探さなければならないという問題があった。 ピアニストについては、谷先輩が鈴木憲夫先生を通して素晴らしい方を 探してきて下さったのだが、肝心の譜面がないのではどうしようもない。 私は3回生当時の指揮者だった同期の森脇君(神戸在住)に連絡をとり 楽譜を探してもらえるように頼んだのだった。 彼はわざわざ村岡の実家まで行き、楽譜を探しだして送ってくれた。 こうしてようやく「ねがい」は日の目をみることになったのである。 6.○○デパート友の会 東京都合唱祭への出演申込の締め切りは4月末日である。 出演に際しては、合唱団名、演奏曲名、参加人数等を申し出なければ ならない。 ところが私達の集まりは、合唱団のようで合唱団ではなかったから、 名前がなかった。 私と啓ちゃんは、何かあるとすぐみんなにアンケートをとっていたので、 合唱団名も公募することにした。 しかし、「これだ!!」という決め手になる名前はなかなかないものである。 私と啓ちゃんは日々電話や手紙のやり取りの中であーでもないこーでも ないと試行錯誤の日々を繰り返していた。 そのうちに締め切りはどんどん迫ってくる。 その日、啓ちゃんは手紙の発送作業の手伝いのために、わざわざ松戸 からうちに来てくれていた。 「ところで合唱団の名前、なんにしよー?」 「もうなんでもええわー、ひびきの人達とその友達の会、でええやん」 「それって『○○デパート友の会』みたーい(笑)」 「ひびき友の会、やね(笑)」 「略して『ひびとも会』とか?」 「ええやん、それで」 こうしてこの合唱団の名前は主婦の雑談から決まってしまったのであった。 今にして思えばどうしてもっとセンスのよい名前を付けなかったのかと 悔やまれるが、当時は1回限りの合唱団の名前なんだからもうなんでも いいや、と投げやりになってしまった。 この名前がずっと続くことになるとは夢にも思っていなかったのだから。 ちなみに「響友会合唱団」と漢字表記にしたのは、いくらかでも格調高く みせようという浅知恵である。 7.二人三脚で・・・ 参加メンバーはだんだん増えていくものの、女声の少なさが心もとな かったこともあり、私達は関西在住のOB、OGにも声をかけることにした。あの頃はとにかく毎日のように手紙ばかり書いていたような気がする。 そして、3日に一度は啓ちゃんに電話して、状況を確認しあい、不安な 気持ちを補いあっていた。 合唱連盟への登録手続はすべて啓ちゃんがやってくれた。 お金の管理や事務的な手続きはすべてお任せしてしまったのだが、 彼女に任せたほうが安心という気持ちもあったからだ。 そうして、問題の合唱連盟の説明会の日がやってきた。 東京都の合唱祭は参加団体が多いため、4日間に亙って開催される。 私と啓ちゃんは、できるだけ多くのメンバーが参加できる日程があたる ことを祈って、代々木のオリンピック記念青少年センターで行われる 説明会に出席したのだった。 書類を見てみると、やはり第1希望からははずされている。 しかし、どうしても第1希望の日程をゲットしたかった私達は、変更希望 を申し出た。 自分たちの都合で好き勝手なことを言う団体の声を、ひとつひとつ忍耐 強く聞き入れて、調整の努力をして下さった連盟の先生には頭の下が る思いである。 なんとか希望の日程に変更してもらったときには、夜の9時を回っていた。 空腹の私達は、参宮橋駅前のおでんやさんで、柚子の香りのするおで んとビールでほっと一息ついたのだった。 ただ、時の経つのも忘れてお喋りしていて、終電になってしまったのは まずかったけれど。 8.雨の河口湖 合唱祭プロジェクトのなかで実現したかったことの一つが合宿だった。 参加者の時間的負担を考えて月1回の練習としたものの、その練習 回数ではあまりにも心もとなく、ステージに載せられる曲として仕上げる には、合宿の集中練習がもってこいだったからだ。 というのは建前で、本音では大学時代のように歌って飲んで騒いで・・・ というのがまたやってみたかっただけだったのだが。 合宿の候補地は、合唱連盟の機関誌「ハーモニー」の広告で見つけた。 「合唱の家おおば」はホームページもあり、経営者の大庭さんとメールの やりとりをしていくうちに、その親切な対応と音楽ホールの素晴らしさに 魅かれてここに決めたのだった。 合宿当日は6月の半ばの梅雨の盛りだったせいもあって大雨だったが、 20名強の方が集まってくれた。 日常を忘れて、音楽と酒に酔いしれた夢のように楽しい2日間だった。 ・・・・・・・つづく・・・・・・・ 次回アップをお楽しみに! |