旅行く心 吉田絃二郎「我が旅の記」(角川文庫)より

この前の最後の旧東海道ウオーキングの時、往復と移動の車中で時間があるので、本を読もうと
思って、一番小さくて薄い軽い本を持っていった。これが「わが旅の記」である。この本は先日近くの
図書館でリサイクル本として山積みされていた本の中から「旅」というタイトルに心引かれてもらって
きた本である。旅行の荷物にならない本として持っていった本だが非常によかった。引き込まれて読
んだ。旅好きな私に合っているように思われた。メール仲間にメールで送信するつもりだったが、長
文になるので興味のある方はこのホームページで読んでいただくことにした。

著者吉田絃二郎は明治19年(1886年)佐賀県生まれ、昭和31年(1956年)没
早大卒、約20年早大で英文学を講じる傍ら小説、戯曲、随想、紀行文、短歌、俳句を創作。
昭和初めには大変人気があった作家だったそうである。
下記の文は多分60年くらい前に書いた文のようである。愛する妻が昭和12年に亡くなっているので
その直後ではないかと思う。旧仮名遣いではあるが違和感はない。

文中、「故人」という代名詞で、自分の身を案じていつも旅行に同行していた妻のことを書いている。
文は明治人の作家らしい名文だと思う。目で追って読むのではなく「声を出して読む日本語」だと思
い、あえて引用して紹介する。

古い角川文庫本を拡大コピーをとり、スキャナーで読み込んだが、旧仮名遣い、旧字体などから
変換効率は極めて悪かった。半分くらいは手で修正した。それだけのことをしても価値があると
思った。一部の字が現在の字体にないので抜けているところがあるかもしれない。

この著者の本がすべて絶版なのはまことに残念である。図書館で見るか、古本屋を探すしか
ない。

角川文庫版「我が旅の記」の第一章を紹介する。

「旅人寂光」
                                    
 秋から冬にかけて旅のみつゞけてゐる間に年も暮れ、春を迎へることになつた。
世間の人たちには朗かな春であらうに、わたくしにとりてはたゞ思ひ出のみの春となつてしまつた。
わたくしは茶の間の片隅に重ねられたまヽになつてゐる二個の鞄を眺めては、しみじみと迫り来る
夜の寒さを感じてゐる。
十月の末わたくしは二個の鞄を抱えて信州の旅に出た。信州の高原は朝毎に深い霧にとざされて
ゐた。浅間にも八ケ嶽にも雪が訪れてゐた。            、
わたくしはそこの落葉松の中の山荘の庭にしやがんでは冷たい枯れ草を撫でた。その山荘こそは
わたくしたちの七ケ年のなつかしい生活の夢の巣であつたからだ。
わたくしはさらに高瀬川をわたつて有明から燕の山腹中房温泉の方へ山路を辿つて行つた。そこに
は数年前二人で日本アルプスに登つたをり見出された葡萄畑が、昔のまヽに取りのこされてゐた。
葡萄畑の片隅に立ちどまつて掌いつばいに葡萄を抱へて小娘のやうによろこんでゐた故人の俤を
思ひ出した。
 白い道も、木蔭を探し出して休息した松山もあの頃のまヽであつた。かつて真清水を掬んだ澤もそ
のまヽであつた。わたくしは振りかへつては落葉に埋められた山徑を見た。数歩後れてはいつも微
笑みつ坂道を歩いて来た故人の姿を、けふも見ることを期待しないではをれなかつた。
 大天井の尾根が銀のやうな初雪につつまれて蒼穹高く走つてゐるのを、わたくしたヾ一人で眺め
てゐた。
いつの年の冬であつたらうか。浅間の雪の中に数人の若い登山家たちの遭難を聴いたのは。その
中に姉妹の女性が交つてゐた。一時に二人の娘たちを失つた両親の悲しみを想像することはできる
。老いたる父と母は二人の娘たちが曾つて登つた山から山をたづねては旅をつゞけてゐるという話
を聞いた。穂高や槍に登るをりには六十歳の父親だけが山嶺をきはめて来る間、母親は山麓に待
つてゐるといふことであつた。わたくしは燕への山道を辿りつヽも、その不幸な老人たちの心を身に
つまされて感じないわけにはゆかなかつた。
 しかしわたくし自身も亦その老夫婦と同じ心から旅をつゞけてゐることに気づいた。わたくしは孤独
な自分自身の影を幾度か落葉しつくした林の間に見出した。「老夫婦には悲しみを分つべき相手が
ある」わたくしは立ちどまつてはしみじみと孤独な自分の影を眺めた。
信濃の山の宿は隙間洩る風も冷たかつた。幾度か夢を破られては、谷川の音を聴いた。かつて故
人とともに眠つた部屋中を見廻した。「一切が夢であつてくれ」わたくしはさう思つては、部屋の中を
見た。
霜に痛められた芝生も昔のまヽであつた。有明の山懐につヽまれた白樺の林いつばいに朝の日の
光りが漂うてゐた。残月さへ懸つてゐた。 
 日の暮るヽころ山を下つて明科駅に出た。長野行きの汽車までは二時間あまりも待たなければな
らなかつたので、わたくしは高瀬川のほとりに出て、ぼんやりと山を眺めてゐた。せきはひろく、白々
と寒かつた。 
                  
  信濃なる高瀬の川の水やなぎかれて暮るゝをひとりゐて見し
  信濃路の山のうまやに汽車を待つ二時あまり人を思ひぬ
. 酒飲みてかなしきこヽろ忘るてふ人をうらやむ身とはなりけり
  浅間山いとはろばろとけむり立ち冬來たるらし雪のつもれり

 信濃の旅から帰って来たわたくしは二つの鞄を片付けようとはせず、そのまヽ茶の間の隅に重ね
て置いた。そして数日後には京都の旅に出た。東海道を走るをりも、わたくしはできるだけ車窓から
外を眺めぬことにした。しかし、はじめて小田原近くなつて伊豆の海を見た時はわたくしの視線は白
い沖の浪に惹きつけられてゐた.
 京都に行つてもわたくしは成るたけなつかしい町を歩かないことにした.それでも清水から知思院
あたりの日暮ごろの道を歩いたり、朝早く加茂のあたりを歩いたりした。
日も日も京都は時雨につヽまれてゐた。宿の一室に閉ぢこもって、縁先の笹の葉や飛び石を濡らし
て訪るヽ京の時雨を眺めてゐるのは何よりうれしいことであつた。
或る時はわたくしは裏町に出て茶の道具を商ふ店に立ち寄つて茶碗を買ひ、路次笠を購めた。

路 次 笠 を 買 う て か へ れ ば 時 雨 か な 
わ び わ び つ 生 き の こ り て も 時 雨 か な
ひ と り 来 て 京 の 時 雨 に ふ ら れ け り
そのをりの句である。

 京の旅から帰つてわたくしは、旅の鞄を開くでもなく、また茶室の隅にそのまヽ放り出して置いた。
旅の宿の女たちが着物や袴を畳んで鞄に入れてくれたものをわざわざ取り出して皺にしてはならな
いと思ふのと それを倉の中の箪笥に運ぶのが面倒だからでもある。われながら無精な人間ではあ
る。
わたくしは数日武蔵野を歩いた。武蔵野にも時雨が訪れてゐた。わたくしは静かな流れにそそぐ時
雨を眺めては人生について考へ、生死について考へた。わたくしは生きて行くためには何ものかを
掴まなければならぬ。大死一番何等かの光りなり、悟りなりを見出さなければならね。

流 る ヽ も よ ど む も お な じ 時 雨 か な

 或る日わたくしは時雨にこめられた武蔵野の流れを見つめながら、こんな句を作つたりした。

いつのまにか夜毎に武蔵野の凩を聴くころとなつた。奥多摩あたりには雪が降つたといふことであつ
た。

庭 掃 き て 雪 待 つ こ ろ と な り に け り

雪のたよりを聞くばかりにも心は疹く。
夜毎月は冴え、庭の欅に凧の声を聴く。

骨 に 沁 む こ が ら し 聞 く も 今 年 か ら
こ が ら し や 今 宵 も 骨 に し む ば か り

いつものやうにわたくしは東京に出て行つて、横山町から両国、濱町あたりをあてもなしに歩いてゐ
た。たゞなつかしい昔のおもかげを描きながら。

わたくしはデパアトの花やかな食堂にはひつて行つた。そして小半時食卓の水仙の花を見つめてゐ
た。この廣い都会の真ん中に、わたくしは孤独なな漂泊者に過ぎない自分の姿をまざまざと見た。わ
たくしは家に帰つて、倉の箪笥を開けた。そこには花やかな長襦袢が重ねられてあつた。わたくしは
間もなく伊豆の旅に出た。二つの鞄を携へて。

 山の湯の町にも戦死した勇士を野邊送りする人々の群を見た。眞つ紅な椿の花の下を多勢の山
の人たちが黙々として歩いて行つた。
 わたくしは夜の更けるまで谷川の音を聴きつヽ香を焚いた。山の夜は寒さも骨にしむ程であつた。

霜 む す ぶ 音 か や 胸 に せ ま る 夜
一 人 歩 む 渡 り 廊 下 の 寒 さ か な

わたくしは修善寺の宿の若い主に案内されて山に登つて行つた。
そこからは枯れ枯れの十国峠も箱根も見られた。
一抱へもありさうな四五本の赤松に取りかこまれた地域を選んで、わたくしたちのために、若者たち
は墓を築いてゐるのであつた。
松の根方一面に丸い石が積みかさねられてあつた。石は苔につヽまれてゐた。若者たちが掘りかへ
してゐる山上は、ずつと昔、塞といふか、城といふか、さういつた種類のものが構へられてゐた地点
だといふことであつた。その一つ一つの石は麓から押し寄せて来る敵を防ぐための砲弾の役目を果
すものであつた。石はみな麓を流れてゐる桂川から山上へ持ち運んだものだといふことであつた。
 わたくしはわたくしや故人のために掘りかへされてゐる墓場の土の香をなつかしむ気にもなつた。
そしてそこいらにころがつてゐる石を拾うては片寄せたりした。自分で妻と自分の墓の土を運ぶとい
ふことは寂しいことであつたが。松に添うて赤い木の實を持つた繊細い雑木や、白樺もあつたので、
そんな木は伐らないやうに注意したりした。
 日が暮れ、寒い月が出で、修善寺の鐘の音を夢心地に聴いたりした。
わたくしは夜おそくまで墓碑の文字を書いた。いざ自分で自分の墓碑の文字を書くといふことになつ
た刹那、さすがに胸の底に冷たいものが流れた。子供のころから今日まで文字を習つて来たことが
今日自分たち二人の墓の文字を書くためであつたのかと考へると。筆を握った手がかすかに震へる
のであつた。しかし、書き出して見るとたゞ一度の書き損じもなく、すらすらと書き了ほせてしまつた。
碑は桂川の川上から探し出して来たものださうで、大きさといひ形といひ申分のないものであつた。
わたくしたちの墓と並んで妻の母の墓も同じ域に建てることにした.
子供もないわたくしたちの墓のことであれば、やがては無縁になるものであるが、伊豆の山の土とな
りて四季絶えず小鳥を聴くことができるであらうと思へば、寂しい中にも慰めもある。墓の隅に山櫻
を一本植ゑて貰ふことにして置いた。
              
 今朝はこの冬はじめての雪が降つて来た。
 四十雀が松に来ては寒さうに枝から枝を飛んでゐる。
七月以来、一度も植木屋を入れない庭ほ荒れに荒れてゐる。松の下枝も大方は枯れてしまつた。
 萩も芒もすがれたまゝになつてゐる。餌をあさりに小壽鶏が竹山こ来てはきよとんとした顔つきで
雪空を眺めてゐる。
庭の苔石もほとんど落葉に埋もれてゐる。池も落葉に埋められてしまつた。しかし現在のわたくしの
心には荒れ果てた庭こそこの上もなくありがたい。「今年ばかりは墨染に咲け」といふ古人の歌の心
を思ふ。秋に入つて山茶花が咲き、部屋の中が赤く映るほど紅葉も燃えた。わたくしは今年はでき
るだけ庭の山茶花や紅葉を見ないことにした。

来客があつて「美しい紅葉ですな」などと庭を褒められるたんびに胸が痛んだ。霜が来て紅葉も山茶
花も散つてしまつた時わたくしは救はれたやうに思つた。

こゝの家を建てたをり或人は「お寺のやうな家だ」と批評した。柱を大きくし、間取りを簡単にし、板の
間を多くし、漆喰壁を見せ、屋根の勾配を急にした建て万や、家のまはりの老杉老樺といひ、竹林と
いひ、すベてが寺らしい感じを輿へたであらう。
今朝庭の雪をながめながらわたしは佛間にはひつて行つた。渡り廊下にちかくわびすけが二三輪咲
いてゐた。
 「如何にして生くべきか」渡り廊下に佇んだまヽわたくしはいつものやうに同じ言葉をくりかへした。
静かな山寺に入つて見たいといふ気もある。吉野の奥か、京の田舎あたりにしばらく一切の世間と
いふものからかけはなれた生活をして見たいと思ふこともある。かういふ場合には何といつても日本
人の宗教生活に最も古い傳統を持つ佛教といふものが無上の関心を持たせる。近代科学の洗禮を
受けたわたくしたちは藤原や源平時代の人たちのやうに一気に佛門に帰依して安住の地を見出す
といふことはなかなか容易でない。しかし行き着くところ、最後の世界は寂光土である。浄土である
。禅定の世界である。            
                                                         
 わたくしのやうな境遇に放いては一切を捨てるといふことは左程困難なことではないやうに思はれ
る。しかしたゞ一枚の訪問服、一筋の昼夜帯を持ち出すことさへも胸を刺される思ひである。
 わたくしは毎朝二匹の犬を連れて武蔵野の雑木山を歩く。無心な二匹の犬もやがてたゞ一人の主
人と別れなければならぬかと思ふと、胸先にこみ上げて来るものがある。
 わたくしはこの寂寥、この悲観を切り抜けて強く生きる道を切り拓かなければならぬ。しかしともす
れば打ち砕かれ、叩きのめされようとする弱い心を何うすることもできないこともある。一蓑一笠の
生活、それも現在のわたくしにはかなり強い誘惑を持つてゐる。
 茶の間に放り出された二つの鞄はわたくしにとつては蓑であり、笠である。わたくしはいつも小五
條の袈裟と数珠を身邊近く置いてゐる。出家の心持ちに生きたいためである。わたくしはこのごろ三
度四度つゞけて吉右衛門の「熊谷陣屋」を覿に行つた。吉右衝門の熊谷はたしかにこの頃の大芝居
であるが、わたくしにほ墨染衣の蓮生坊の姿が特になつかしい。
一日生き延びることが故人に對してすまぬやうな気もする。しかし一日生き延びることによつて一日
深く悲しみを掘り下げて行くことによりて、生きてゐる申わけをして行きたいと思ふ。


母を失つたをりかくの如き悲しみが人生にあることを初めて知つた。妻を失つたをりさらに深き悲しみ
の人生にあることを初めて知つた。妻と子をともに失つた人の悲しみを思ふ時、わたくしはさらに生き
て人生を深く悲しみ、苦しみ、思惟することをしなければならぬ。
 
 裏の竹山に雉子鳩が鳴いてゐる。孤獨な鳩だ。雪は大分積もつた。この春の雪に片方の幹を折ら
れた白樺が、片方の幹だけを見せてゐる。白樺を眺めてゐる間に不図釧路の友人のことを思ひ出し
た。「三度目の雪が降り出して来ました。牧場の牛がみんな小屋の前にもどつて来て、雪に濡れな
がらぽつんと立つてゐます。そして時々倫むやうにして母屋の方を眺めてゐます。それは恰度、雪
が降つて来たではないか、何か喰べさしてくれ と、こつちに謎をかけてるやうなのです。しかしそん
な時、一度でもこつちから食物をやると、それが癖になつて、すつかり人間に頼ってしまひ、自分で
食物を探しに行かなくなるので、終日放つたらかして置くのです。すると、のこのこ自分で山の方へ
食物を探しに行きます」
わたくしは友人の手紙のことを思ひ出した。東京の生活を捨てヽ北毎道の山の中に行つてしまつた
かれも正しい生活を見出し得た人間であつた。尊い生き方を発見した人間であつた。わたくしの妻
が亡くなつた時、かれの牧場の隅の菩提掛の花が咲いたといふたよりを寄せて来たことがあつた。
牧場の片隅に菩提樹の花が咲くとろになつたら、かれも故人のことをしみじみと思つてくれるであらう