今日はJR中央線の恵那駅(中山道大井宿)から中山道を大湫宿〜細久手宿まで歩き、その後は
JR中央線の瑞浪駅まで34.1km歩いてきました。
このコースは去年の8月末に中山道の御嵩宿まで歩いたことがあります。
今日もそのコースを取っても良かったのですが、御嵩へ出ますとそれから家へ帰るのが
また一苦労で帰宅まで2時間以上掛かります。
そこで同じ位の距離を歩くのなら、帰りが早く帰れるように、中央線の瑞浪駅まで歩くことに
しました。
これからは暑くなるので、なるべく朝早く出て、早く終わるようにするつもりです。
日中の天気より、夕方近くになってからの、例えば午後4時頃の照り返しがむしろ身体に
こたえるように思います。
去年もその時間帯に身体の調子がおかしくなったことがありますので、早く出発して
早く終わると心掛けたいと思っています。
そんな訳で、朝6時半過ぎに家を出て、愛知環状鉄道、JR中央線と乗り継いで、恵那駅に
8時頃着きました。
この頃のjRの駅もおしゃれになっていると
思います。
洒落た感じの駅です。
ご存じにとおり、恵那は中山道の大井宿として
栄えた所です。
その関連のものがかなり残っているそうですが、
今日は立ち寄らずに中山道を歩き出しました。
JR中央線の踏切を渡る。
天下の中央本線が単線だと思わせます。
私も、前来た時そう思ってメールで報告したら
違いますという指摘を貰いました。
これは上り(名古屋方面)で、下り(長野方面)は
右手のトンネルの中を走っています。
そう云えば今日恵那駅へ着く手前で長いトンネルが
ありました。
西行塚
平安末期の歌人で古今和歌集に94首も採用されて
いるという西行法師の墓とされるもの。
西行の没地については大阪他10カ所くらいある
そうですが、この地にも晩年居を構え、没後ここへ
骨を葬って欲しいといったという伝説があり、ここが
西行塚とされている。
恵那市には他に西行硯水公園、西行の森など
西行関連の施設があり、恵那市の観光のポイント
になっている。
何らかの因縁があったのでしょう。
この西行塚で千葉から来たという中年の夫婦連れに会う。
これから、細久手宿まで歩くという。
それからどうするのですかと聞くと、細久手宿で宿泊するという。
大黒屋ですかと聞くと、そうだと云う。
それからどうするのかと聞くと、明日は御嵩宿を通り、伏見宿まで歩き、今回はそれで千葉へ
帰るそうです。
いずれは京都まで行くと云われる。
東京からここまで、四国の巡礼の「区切り打ち」をもじれば、「区切り歩き」で来たのでしょう。
最近のウオーキングブーム、中高年の余暇の活用ということから、街道を歩くというのが、
ブームになりつつあるのではないかと思いました。
夫婦で中山道を歩くというのも、その現象の一つだと感じました。
典型的な中山道の道
こういう道がずーと続くと云うことはない。
しかし、こういう道がずーと残っている訳では
ない。
むしろ、部分的に辛うじて残っている所もある
というのが現状でしょう。
槇ガ根追分
右が上街道(中山道)、左が下街道。
右は「京大坂」、左は「伊勢名古屋」
下街道は、ここから今の釜土、土岐、多治見を
通って名古屋へ通じており、上街道より18km
近かったため、一般通行客、商人、伊勢参りの
参拝客の通行が盛んだったが、幕府は
中山道の宿場の保護のため商人荷の下街道通行
を禁止した。尾張藩も厳しく取り締まったが、
なかなか徹底しなかったとある。
昔から権益保護の為の規制というものが
あったのですな。
また、宿と宿の間に「立場」という休憩所があった。馬も休憩させるため、繋いでおいたということから
名前が来ているとか読んだように思う。しかし、幕府はこの立場では旅行者の休憩は認めても宿泊は
認めなかったと書いてありました。これも宿場の利益の保護のための規制だったのでしょう。
恵那から大湫宿にかけて、中山道13峠と呼ばれる
峠あり、とにかく峠、坂の多い所である。
そんなにきつい登りではないが、とにかく
アップダウンが多い所で、峠には大概、茶屋が
あって、何々茶屋跡という表示がある・
ここもそんな峠を下りてきた所にあった茶屋跡で
ある。
竹藪から人が出てきてビニールの袋を抱えていたので、
竹の子ですかと聞くと、そうですといってにやっと笑っていた。
自分が狙いを付けてきた竹藪に狙いどおり、竹の子が
たくさんあったので、満足していたのでしょう。
すぐ下に車が停まっていたので、遠くから竹の子狩りに
きたのかもしれない。
こんな山の上のような所でも田植えが済んでいた。
標高400メートルくらいの所です。
今日、気づいたのは、下の里の田圃はまだ、
田植えがされていないのに、上の方ほど田植えが
済んでいました。
田植えは高いところから済ませていく慣習でも
あるのですか。
中山道の尾根道を気持ちよく歩く。
大湫宿に11時頃着。
休憩所でしばし休憩。
バナナ一本、チョコレート一切れを食べ、お茶を
飲む。
去年もここで休憩してバナナを食べたな。
大湫宿の民家
昔の田舎の町や村はこんな風だったに思う。
この町並みを見ると、戦争中(古い話だ)疎開
していた和歌山の片田舎を思い出します。
大湫宿は本陣は残っていません。跡地は
小学校になっている。
脇本陣は一部残っている。
脇本陣でも当時、部屋が16もあって、別棟も6
あったとか。
随分広大な家だったらしい。
今日のコースで中山道らしいのは大湫宿までで
あって、大湫宿から細久手宿までは大半が
舗装道路である。
要するに一般生活道路となっているということで
ある。
その例外が琵琶峠という所で、ここは
峠なので、一般生活道路ではないので、
中山道の昔の道が残っている。
峠だから登り下りがある。
峠の頂上に皇女和宮の歌碑がある。
「住み馴れし 都をい出て けふいくひ
○○○○つらき 東路のたび」
○の部分は写真からは読めません。
皇女和宮の関連の遺跡はたくさん中山道に残っています。
この東下りは地元にとっても大変な事業だったようです。
奥の田一里塚という所で、写真を撮していた
中年の男性に話しかけました。
犬山から来たそうで、JRの釜土駅から
中山道へ歩いてきたそうで、御嵩まで歩きたいが
最近歩いていないので自信がない、
どうなるか分からないということでした。
御嵩まで行くと、後は電車で一本で帰れる
ということでした。
こういうウオーキングは途中でギブアップしても
バスがあるわけでもないし、タクシーもないので
困るんですよね。
この方はとにかく行けるところまで行ってみます
と云っておられました。
お互いのカメラで写真を撮り合いました。
デジカメの説明が、まだ必要です。
一般のカメラを持っている方にはデジカメのシャッターに違和感があるようです。
細久手宿、12時半着
この前の公民館の階段に座り込んで、休憩する。
今日は少し早いが、この先食事する場所が
無さそうなので、ここで昼食にした。
大きめのおにぎり一個。
ウオーキングをしている時は意外とお腹の空かない
ものです。お腹は空いているのかも知れないが
空腹感がない。勿論、食べて食べれないことは
ないが、その気が起こらないということである。
先週の南木曾〜中津川のウオーキングも
結局食べる間がなく、帰りの電車の中で缶ビールを
飲みながら、おにぎりを食べた。
これが大黒屋といって江戸時代から続いている宿屋です。
今も営業しています。
上記の細久手公民館の真前にあります。
今日、西行塚であったご夫婦が泊まるのはここです。
あまり宿泊する人も多くないようにも思いますが、
街道を歩くブームで意外とコンスタントに宿泊客がいるのかも
しれません。
今後も益々注目されるような気がします。
細久手宿は、元は宿場ではなかったのですが、
大湫宿と次の御嵩宿の間が遠すぎるので、幕府が
その間に細久手宿を作ったと説明板に書いてありました。
それでも当時宿屋が30軒近くあったということです。
細久手宿から更に2kmほど中山道を歩き、平岩という所で中山道と分かれて一般の舗装道路を瑞浪駅
目指して歩いたが、これが遠い遠い、結局2時間びっしり、うんざりするくらい歩いた。
瑞浪駅着、午後3時丁度、7時間。34.1km。
中央線は丁度快速に間に合ったが、高蔵寺で愛知環状鉄道の連絡悪く35分待った。
それでも午後4時20分には帰宅できた。
御嵩へ歩いていたらもう1時間以上遅くなったでしょう。