平成14年12月28日
名鉄広見線御嵩駅〜旧中山道〜御嵩宿〜細久手宿〜大湫宿〜JR中央本線恵那駅(31.0km)

今年も押し迫って、やっと旧中山道の御嵩宿の続きを歩くことができた。
御嵩〜恵那が一つも区切りである。30キロ余りとなると、それなりの心の準備も必要で、簡単に出かけるわけに
いかない。

朝6時40分に家を出て、愛知環状鉄道、JR中央線、太多線、名鉄広見線を乗り継ぎ、御嵩駅に8時10分に着いた。


8時15分歩きだす。地図とラジオを持ってくるのを忘れたのに気がついた。ラジオがなくても別に困るわけではない。
それに地図がなくても、反対のコース、恵那から御嵩は、今まで2回か3回歩いているので、その記憶をたどれば
なんとかなりそうだ。それと今日の中山道の大部分は、たまたま東海自然歩道になっているので、標識はたくさん
立っているから、迷うことはない。


駅の前が、願興寺という大きいお寺がある。「蟹薬師」とか「可児大寺」として多くの信仰を集めているそうである。
その横が、御嵩宿郷土館となっている。その横が旧御嵩宿本陣跡である。


御嵩宿本陣跡
立派な門構えの家である。



気温は何度が分からないが、寒い。電車の中で1枚ジャージを脱ぎ、リュックに詰めて歩きだした。


旧中山道沿いの商家

落ち着いた風情の町並みである。
何度きても、心を和ます感じがして、ここの町並みは
好きである。


駅前に続く商店街を通り抜け、大きい国道に出る。足下から寒さがしんしんとわき上がってくる。
早足で歩くのみ。


和泉式部廟所
平安時代の女性歌人の和泉式部は、この地で病み、
1019年に亡くなった所だそうである。

実際は和泉式部の没年も墓も正確なことは分からない
らしい。


和泉式部の廟所のあったところから、国道から旧道に入っていく。東海自然歩道の標識も目に付きだした。

畑一面に霜が下りている。そんな中をすたすたと歩く。

「牛の鼻かけ坂」という坂がある。坂が急なので、荷物を乗せた牛が鼻をこすり欠けたほどだそうである。
ちょっとオーバーな表現である。そんな坂を上ったと思うとまた、下って、また普通の道へ出て、また山へ入っていく。
謡坂という所である。


謡坂の石畳
昔の旅人は、この坂を上るのが、えらいので
歌を謡いながら上ったとか。


いったん、山道から下りたところが、津橋という集落である。
「生しいたけ販売所」と看板を出している家があった。このあたりの生しいたけの集産所になっているらしい。
生しいたけといえば、私の高校時代の友人に、「君が山歩きをしているとき、生しいたけを売っていたら、買って
送ってくれ」と頼まれたことがあった。2年くらい前か、彼はガンの手術をした後だった。
彼のガンに生しいたけが効くとかいうことだった。そのことも忘れていたが、ここの看板を見て思いだした。
こんな所で売っていたのか、それを知っておれば、一度くらい送ってやってもよかったな。
その彼も、今はもはや、私の過去の記憶の中ににとどまるのみである。

津橋から、また山へ入る。ゆるやかな尾根道をしばらく歩くことになる。
おそらくこのあたりが、旧中山道でも最も気持ちよく歩けるところだろう。
土の道で、かつ整備されているし、歩いていて不安もない。
人っ子一人いない道を、落ち葉を踏んでぱさぱさと、霜柱を踏んでさくさくと歩く。本当に気持ちよいところだ。


鴻之巣一里塚
昔の塚が両側に残っている。左右の塚が地形の関係か
十数メートル東西にずれている。

ちょうど歩きだして2時間、暑くなったので、オーバーコート、
マフラー、帽子を脱いで、リュックに詰め込んだ。
上はシャツ2枚だが、若干風があるので手袋だけは
する。


山の道から下りた里が平岩という所である。
ここからは普通の道を歩く。
そこで道が広い道と細い道に分岐しているので、どちらかな、たぶん細い道だと思って、立ち止まっていると、
向こうからきたダンプカーの女性の運転手が、「中山道はそちらの道だよ」と細い方の道を指さし、教えてくれた。
親切な人だ。

細久手宿着、10時50分。


細久手宿、大黒屋
江戸時代の旅籠で、今も営業中である。
ここへ泊まった人の話では、美人の女将がおられるそうで
ある。
明治以降、細久手宿は寂れてしまったが、昭和26年に
料理旅館として再開したとか。
最近は旧中山道を歩く人も増え、結構忙しいとか。
確かに御嵩〜恵那はすこし距離が長いから、ここで
一泊するのもちょうどいいかもしれない。

細久手宿は元々は宿場がなかったが、大湫と御嵩が長すぎるので、その間にできた宿である。だから旅籠の数も
多くなかった。小規模な宿だった。まったく昔の面影がない宿場が多いことを考えると、そうした中で、この宿に
そういう旅籠が、今も立派に営業しているのも、ちょっと歴史の皮肉を感じさせる。


大黒屋の向かいに公民館があり、いつもトイレが使えるので、利用させてもらう。


細久手宿を出たところで、向こうからきた車の人が、私に手招きして呼び止める。
なんだと思えば、「ここからちょうど御嶽がきれいにみえるよ」と指さして教えてくれた。
私より年配の人だが、親切な人もいるものだ。


正面にみえるのが、雪をかぶった御嶽山である。



奥之田一里塚

瑞浪市内の旧中山道には、四つの一里塚があり、
そのすべてが残っている。こういうところも珍しいが、
それだけ、瑞浪市内の旧中山道が、今の生活地域を
はずれた山の中を通っていたということである。




弁財天の池
池の真ん中にあるのが、弁財天らしい。
江戸時代から、この池はちょうどいい休憩所だった。
やはり冷たいのか、池の表面は凍っている。

途中で中山道ウオーカーに会った。私くらいの年配の人である。今日は恵那から歩いてきた。
できれば御嵩まで歩きたいということだった。
和田峠はどうでしたと聞くと、この人はそちらを通らず、甲州街道を歩いてきたということだった。
なんとかいう峠を越してきたと言われたが、名前は聞き漏らした。


琵琶峠の入口に差しかかる。東海自然歩道はここを迂回して、アスファルト道をいくようだが、上り下りには
なるが、距離的に近い旧中山道を行く。


琵琶峠にある八瀬沢一里塚

峠の頂上に皇女和宮の歌碑がある。

ここは日陰になるせいか、雪が解けずに残っている。



琵琶峠を下りて、一般道路に出てしばらく行くと、大湫の
「二つ岩」という巨岩が並んでいる。
写真はその一つである。
岩が山の中から押し出てきたような感じがする。



大湫宿着、12時20分

まったく人影もない。


大湫宿


大湫宿では脇本陣が半分崩れかかって残っているが、本陣はなく、小学校になっている。

大湫宿のはずれの休憩所で、あんパンを一つ食べる。これが昼飯である。
しばらく休憩して、また歩きだす。

山道に入り、また広い道を横切り、山道に入りかけたところで二人連れに会う。一人は会社の者で、もう一人は
取引先の人である。
恵那から大湫まできて、そこからJRの釜戸駅に出る予定だそうである。
今日このコースを歩くというのは聞いていたので、どこかで会うかもしれないと思っていた。
もうとっくに釜戸へ下りたかと思っていたが、ここで会った。だいぶゆっくり歩いてきたらしい。


会社の者に写真を撮ってもらった。
左側が私、右が取引先の人。

この後ろの林にも、雪がところどころ残っている。

しばらく雑談してから、また歩きだす。

ゴルフ場のホールの間に、旧中山道(東海自然歩道)が通っている珍しいところである。
ここらあたりも、旧中山道でも歩くのに最も気持ちよいところだろう。

中山道十三峠といわれるだけあって、このあたりはアップダウンが多い。そんな急な上り下りではないが
それでも、だんだんしんどくなってくる。。

権現山一里塚を過ぎ、深萱立場でいったん下の里に下りた。そこからまた上りの坂道である。
このあたりになってくると、上り道がこたえてくる。あといくつ上りがあるのか、気になってくる。

紅坂一里塚の前に、大きいランドクルーザーとかいう車を留めている人がいた。私の顔をみて、
「すみません、車が邪魔ですか」とか言う。人間一人くらい通るのに、全然差し支えない。
この一里塚の写真を撮っている。しばらく雑談。愛知県の尾張旭の人らしい。
古い街道、家並みなどの写真を取りにあちこちへ行くらしい。滋賀県にいたことがあるとかで、滋賀県の
旧中山道や最近話題の豊郷の小学校の話などをした。

「乱れ坂」という今日最後の上り坂を上る。乱れ坂とはよくいったものだ。確かにこの坂を上るのには
息が乱れる。急な上りを終わったと思ったら、しばらくだらだらと上りが続く。
ここからしばらく尾根道を歩くことになる。

今日最後の一里塚
槇ガ根一里塚


槇ガ根追分の標識を見て、残りの距離と時間が気になりだした。
はっきりした電車の時間は分からないが、急げば次の快速に間に合いそうなので、
アスファルトのゆるやかな下り坂を急ぐ。


西行塚を横目で見て、駅へ急ぐ。

恵那駅着 3時15分、ちょうど7時間。31.0km