平成14年9月29日

名鉄新岐阜駅〜旧中山道加納宿〜鵜沼宿〜名鉄新鵜沼駅(22.2km)

今日は、オリエンテーリングクラブの仲間と二人で旧中山道の続きを歩いてきた。
降雨確率50%とかで雨のおそれもあったが、朝は降っていなかったので出かけることにした。

名鉄新岐阜駅に9時少し前に着き、友人と落ち合った。早速歩き出す。
駅から南へ行く道が分からず、結局JRの岐阜駅に出てしまった。ここからは前きたときの逆のコースだから
道は分かっている。

とりあえず、加納宿の本陣跡に寄った。


旧本陣跡
皇女和宮御仮泊所跡とある。

横にあるのは皇女和宮の歌碑である。
説明に寄れば
「和宮が文久元年(1861年)10月26日当所に宿泊されたとき
そのときの自分の心情を詠んだとされる歌
「遠ざかる 都としれば 旅衣
一夜の宿も 立うかりけり  」
中山道宿駅制度制定400年記念に、本歌碑を建立する。
平成14年6月吉日 中山道加納宿文化保存会」
とある。


写真を撮っていたら、近くにいた人が、寄ってきて「中山道を歩くのですか」と聞く。
「そうです」と言うと、この本陣跡、歌碑のことをいろいろ説明してくれた。
この先の佐藤薬局が昔の吉文字屋という屋号の店で、ここのご主人が保存会の会長をいているとかで、
加納宿のことは詳しいから、そこを訪ねてみなさいと教えてくれた。

写真を撮ってから、いよいよ中山道を東へ向かって歩き出す。

加納宿は岐阜市のど真ん中だし、岐阜も太平洋戦争で焼けただろうし、古い家並みは残っていないだろうと
思っていた。しかし意外に古い建物があちこちに残っていたのには、正直言ってすこし驚いた。


突然、街道筋に古そうな建物があった。
ここでも、そばにいた中高年の男性が説明してくれた。
これは、旧加納町役場だそうである。
「えっ加納町というのが別にあったのですか」と言うと
「加納町が岐阜市に統合されて60年以上経ちますが
町役場として使われていた建物ですよ。これを設計したのは
国会議事堂を造ったのと同じ人ですよ」ということである。
大正末の建築である。
今は、町内会連合会とかの用途に使われているだけである。
取り壊しの話も出ているとか。
もう少しきれいに保存してもらいたいという気がする。
こんな建物が見られるとは、今日の一番の収穫かなと
思った。

あるホームページに「岐阜市は中山道加納宿に対して冷淡だ。岐阜市役所観光課へ行っても、加納宿の
地図1枚、資料の一つもない」と書いていた。加納宿は元々、加納町に属していて、後から岐阜市に合併した
のであれば、岐阜市から見れば、加納宿は自分ところという意識は薄いのか。
岐阜は斎藤道三、織田信長の本拠であって、徳川の決めた中山道など大したものではないということかも
しれない。


このあたりから、中山道は鍵形に何回か曲がる。城下町、宿場町の特徴である。
鍵型に曲がるところにも男性が私たちに話しかけられて、道が曲がっていること、佐藤薬局のご主人のことを
丁寧に教えてくれた。岐阜の人はみな親切な人ばかりらしい。旅人らしいものを見かけると、一言声をかける
ようになっているのかもしれない。

佐藤薬局に通りかかったが、特に加納宿や中山道について講義を聴こうというきもないので
そのまま通り過ぎた。
鍵形の道を通り過ぎ、また東へ一本道を歩く。所々に古い家が建っている。
それらの写真を撮りながら歩く。


加納宿内の街道に面した旧家

今もなにかのご商売をしておられるようである。




中山道街道筋に立つ古そうな商家




同じく街道筋の立派な家
一見、お寺のような、格式のある旧家である。




細畑の一里塚

道の反対側にも塚が残っている。
道の両側に一里塚が残っているのは珍しい。
しかもこんな街の中に二つ揃って残っているのは、中山道でも
他にはないのではないかと思う。

しかし植わっている木は、樹齢400年とも思えない。
後で植え替えられたのではないかと思う。



今日のコースは加納宿を出てからは地図なしでも歩けるくらい、一本道である。

各務原市に入ったころから、雨が降り出した。しばらく傘なしで歩いたが、やみそうもない。
仕方がないので、持参の折りたたみの傘を出し、傘をさしつつ歩く。

各務原市の市民公園、市役所など立派な施設がある。
市役所を通り過ぎ、しばらく行くと道は国道21号線に合流した。今日のコースの3分の1は国道21号線を歩くことに
なる。この21号線は日曜日でもびっくりするくらい車の往来が激しい。
しかも車道と歩道がハッキリ分かれていないから、歩くのに危なくて仕方がない。
この区間は前を見てただひたすら歩くのみである。


国道21号線
歩いているすぐ横を車が疾走する。


道の左側(北側)に川崎重工の大きい工場がある。地名も川崎町というくらいである。
敷地面積はどれくらいあるか、しらないがずいぶん大きい工場だ。

ひらすら国道を歩いて、また21号線と分かれて旧道に入る。
旧道といってもよく車の通る道だ。

鵜沼宿に入り、あちらこちらに古い建物も散見する。


鵜沼宿
街道に面して、少し古い家並みがある。



鵜沼宿の古い家
横に土蔵を持ち、立派な建物である。

ここが脇本陣だったのかもしれない。

ここでは、本陣跡も気づかず通り過ぎた。

こういう風にところどころ古い家もあるが、
全体として宿場は何も残っていないといって
よいと思う。



鵜沼宿の芭蕉の句碑
芭蕉は3回に分けてここを訪れ、それぞれ句を残している。
「汲溜の 水泡だつや 蝉の声」
「ふぐ汁を 喰えば喰せよ 菊の酒」
「送られつ 送りつ果ては 木曽の秋」

この3本の碑が、その俳句と関係あるのか
はっきりしないが、確かに真ん中の碑は
ふぐ汁という字は読めた。



今日は、美濃太田はまで歩くつもりだったが、太田までまだ8キロもある。
小雨降り止まず、疲れたので、今日は鵜沼宿で止めることにした。
この後、名鉄新鵜沼駅まで歩いた。けっこう距離があった。2kmくらいあったと思う。

名鉄新鵜沼駅着、午後2時10分、5時間10分、22.2km
今日は、ここまでバナナ1本食べたきりである。
駅前の喫茶店のような食堂のようなところへ入って、ビールで乾杯した。