平成14年9月8日
JR美濃赤坂駅〜旧中山道赤坂宿〜美江寺宿〜河渡(ごうど)宿〜加納宿〜JR岐阜駅(23.9km)

8月はとうとう旧中山道の続きを歩くことができなかった。
やっと今日そのチャンスがきた。
朝瀬戸市の自宅を7時半過ぎに出て、電車を乗りかえJR美濃赤坂駅に9時25分に着いた。
早速歩き出す。旧中山道へはすぐに向かわず、ここの名所の一つであるお茶屋屋敷跡へ行った。


お茶屋屋敷跡
「ここは慶長9年徳川家康が岐阜城屋敷を移築した
将軍専用の休息所である。お茶屋敷は中山道の道中
4里ごとに造営され、周囲には土塁空堀をめぐらし
その内郭を本丸といい、本格的な城郭の構えだった。
現在ここが唯一の遺構でその一部を偲ぶことのできる
交通史上重要な遺跡である。」
と解説板に書いてある。
今はぼたん園となっている。
中へ入ったが、時間が早いせいか、誰もいなかった。
庭園というのか、それにしてはきれいに手入れされているとも
思えなかった。すぐに出てきた。

駅の方に一度戻り、中山道に向かう。
駅には無料の自転車レンタルがあり、それに乗って町を見物している人に出会った。



駅から旧中山道に向かう途中の道
古い家並みが並んでいる。


谷汲街道と中山道の交点にある旧脇本陣





赤坂は石灰と大理石の産地である。
そのための物資輸送用の貨物線がすぐ西を走っている。
この店は河合石灰工業という会社の本社である。
いかにも年代を感じさせる店構えである。
写真のこちら側が工場である。



そこからしばらく街道を歩いたところに赤坂港会館というちょっと風変わりな建物が経っている。


赤坂港会館

この建物についてはいわれがある。
明治8年大垣警察第5分区屯所が先ほどの中山道と谷汲街道の交差点に
開設された。その後改築のため取り壊されることになり、昭和7年に
近くの山の上に移築され、商工会事務所、赤坂化石館として昭和60年
まで使用されたという。
この建物は明治初期の概要復元をはかったものである。

私が「西洋館の旅」という本を見たとき、赤坂に明治時代の建物が
残っている画を見た。その建物を赤坂へ行ったときぜひみたいと思って
大垣市役所赤坂支所へ電話して、まだ残っているんか聞いてみた。
支所の方はいろいろ調べてくれて、その建物は老朽化のため取り壊した
が、赤坂港会館として復元したといことを電話してくれた。
それでこの建物を見るのを楽しみにきたのである。

管理人がいて、パンフレットをくれた。中を見学できたが、靴を脱がないといけないので、中の見学は失礼した。
化石の陳列棚らしいのがみえていた。
管理人の人は表へ出てきて、表に設置してある日時計のことを説明してくれた。
矢橋式日時計というらしい。作者は愛知淑徳大学の先生とか。一年のうち10回ほど調整が必要ということである。
その調整のことも日時計の下に貼り付けてある。日時計の影の差すところがちょうど10時だった。正確なもので
ある。


赤坂港跡
この川杭瀬川はかって揖斐川の本流だったが、享保年間の
大洪水で流れが変わり支流となった。
豊富な流量があり、船運によく利用された。
明治から大正中頃までここら一帯は赤坂港と呼ばれて
繁盛した。その後美濃赤坂線の鉄道開通により衰退し
水門開設により船の航行が困難となり廃絶した。


赤坂の町を出て、田園地帯の中をひたすら東に向かって歩く。今日はカンカン照りではないが、快晴に近い。
昨日と大違いである。
長袖のシャツ、帽子をかぶり、ハンカチを後頭部に垂らして、サングラスをかけ、ラジオを聞きながら歩く。


中山道の案内標識
ところどころでこういう案内を見ることができる。
中山道400年記念事業の一環なのか。

いずれにしても歩く者には助けになるし励ましにもなる。

呂久の渡し跡というところへきた。和宮記念公園にもなっている。
案内によれば、揖斐川はここが渡し場になっていたらしい。しかし現在の揖斐川はまだ2〜300メートルは
向こうである。それだけ大水が出て水路が変わったらしい。川幅は通常時で90メートル、大水のとき180メートル
あったとか。
和宮の歌碑がある。旧中山道を歩いていると、皇女和宮の史蹟がいたるところにある。和宮の降嫁は
大変な大事業だったというのがよく分かる。

揖斐川にかかる数百メートルの鷺田橋を渡る。
天下の大河も雨が少ないせいか、川幅は少ない。大部分が川原である。

揖斐川を越えると巣南町である。
田の中の道を東北に向かい、美江寺宿に入った。
赤坂〜美江寺が以外に遠かった。11kmくらいあったと思う。ここに着いたのがもう12時近かったから
2時間余り歩いたことになる。


美江寺宿本陣跡の標識

元々美江寺宿というのは小規模な宿場だったらしい。
本陣1、旅籠11とある。伝馬の中継ぎの宿場だったらしい。

ほかに特に史蹟らしいものはないようである。



美江寺宿の町並み
止まっている観光バスは歴史探訪のツアーかなにからしい。
向かうからぞろぞろ歩いてくるのはその一行である。
中高年の男女のグループだった。
正面にある美江神社へいったきたらしい。




美江寺宿の古い酒屋さん
頼むからせっかくの古い家の前に自動販売機を
ずらずら置かないでほしいよな。


美江寺を出て、田園地帯の中をひたすら歩くだけである。

河渡に差しかかったころ、空が黒くなり、パラパラと降ってきた。まさか、あの好天だったのにと思いつつも
念のため荷物になるのを覚悟で持ってきた折りたたみ傘が役に立ちそうである。

河渡宿というところも何もないところだ。田園地帯の中の新興住宅街という感じで、およそ旧街道の
面影は何もない。
このときざっと降ってきた。しばらく公民館のような、集会所のようなところで雨宿りした。
雨はやみそうもないし、小降りだし、また歩き出す。


河渡宿
馬頭観音堂
私が見た唯一の河渡宿の案内



河渡宿を出たところがすぐ長良川である。
長い橋を渡れば岐阜市である。
雨はやんだが、橋を疾走する車が水しぶきをはねるので、歩道の端を歩いて渡る。
川原にはたくさんの車が並んでいた。

旧中山道は橋を渡ってすぐ川に沿って北へ向かうが、こちらは信号のあるところまでは反対側へ
渡れない。だいぶ行ってから信号で渡って、旧中山道をおいかけることになる。

ここらは岐阜市の鏡島というところである。
旧道らしくところどころ古い家も残っている。


岐阜市鏡島の旧中山道
ところどころこういう家が残っている。



この道は車のよく通る道だ。路線バスもよく往来する。
市街地に入って、道を間違えやすいと思っているうちに道を間違えたらしい。

つい注意散漫になって、道を間違えたようである。困ったなと思っていると学校の建物がみえた。
地図上にそれらしい学校の記号がある。ここだなと自分で決め込んで、学校の南の道をまっすぐ進む。

しばらくそのまま歩いたが、どうもおかしいと思いだした。家の表札を見て地名を見ると新興町とか出ている。
しかし地図には細かい地名まで書いていない。そこへ若い女性がやってきたので、この道は旧中山道ですかと
聞くと分からないと言う。ここはなんという所ですかと聞くと、本荘だという。私が地図を見せながらこの学校の
前を歩いてきたですがというと、地図を見て「それはこっちの学校でしょう」という。「えっ学校がほかにもあるのか」
「じゃ地図でここはどこですか」と聞くと、この辺ですと指さす。なるほどと納得。このごろの若い女性は地図が
分かるんだと変なところで感心した。お礼を言って別れた。
旧中山道は鏡島から東南に斜めに進むが、私は間違って真東に進んだらしい。だから旧中山道とはずいぶん
離れてしまった。しかし現在位置が分かった。真南に進めば旧中山道にぶち当たるはずである。

そこから南へまっすぐ進む。いくつか大きい通りを渡り、繊維の卸屋の団地に入り込んだ。


岐阜繊維卸センター
日曜日のせいでもあるのか、広いところに
人っ子一人みえないのが異常な感じである。

ここを通り抜け、目印にしていたJRの高架をくぐるとすぐ旧中山道である。旧道は旧道らしい感じはする。
やがて加納という地名が目に付くようになり、加納宿は近い。

加納宿西番所跡というのがあった。
しばらく行って脇本陣跡を言う標識があった。


加納宿脇本陣跡

ここはもうひとつの脇本陣である。



この脇本陣のすぐそばに旧本陣跡があった。
皇女和宮歌碑というのが立っていた。この本陣に宿泊されたという説明がある。

今日は久しぶりに長距離歩いたせいか、足が痛くなった。特にアスファルトの道をこれだけあるいたのは
ほんとうに久しぶりである。

今後の行程を考えると、今日ももう5kmくらいあるきたいところだが、そんな元気も残っていない。
今日はここで止めることにした。JR岐阜駅に向かう。

JR岐阜駅着午後3時ちょうど、5時間35分、23.9km

午後5時少し前に帰宅。今日は疲れた。

以上