平成14年6月9日
JR東海道本線醒ヶ井駅〜旧中山道・醒ヶ井宿〜柏原宿〜今須宿〜関ヶ原宿〜垂井宿〜
赤坂宿〜美濃赤坂駅(28.2km)

今日は5月25日の続きの旧中山道を歩いてきた。
JR東海道本線の醒ヶ井駅に着いたのは午前9時15分ころである。
醒ヶ井というのは、どのあたりかというと、滋賀県の東のはずれである。
米原の一つ名古屋寄りの駅だが、JRの駅でもう二つか三つ乗ると、もう岐阜県である。

そんなことで、今日は昔でいう近江から美濃へ、国を一つ越えていくことになるわけである。

醒ヶ井駅の待合室で、一度リュックサックを下ろす。デジカメ、ラジオ、ICレコーダーを取り出す。
日焼け止めローションを出し、腕、首の後ろなどに塗りたくる。これから日差しが強くなるので、
こういう注意も必要である。

駅のトイレを借り、支度を済ませ、歩き出したのは9時半である。

駅の前の国道21号線を渡ると、すぐ斜めに町の中心街へ向かうらしい道がある。この駅前通の道は
旧中山道ではない。少し遠回りになるが、本来の旧中山道を歩き、醒ヶ井宿の中心街へ向かう。

醒ヶ井は水の町である。水といっても、ここには大きな川が流れているわけではない。
水というより湧水というほうがわかりやすい。石灰岩からきれいなおいしい水がこんこんと湧き、
この宿場町を貫いて流れているのである。
日本名水選の本には、必ずといっていいほど、醒ヶ井が取り上げられている。

ここにも3名水というのがあるそうで、その一つが西行水(さいぎょうすい)である。
西行水は、旧中山道のすぐすばにあった。

西行法師がここで、
「水上は 清き流れの 醒井に 浮世の垢を すすぎてやみん」
と詠ったという案内板があった。


「ハリヨと梅花藻の町 中山道 さめがい宿」という看板が、街道筋のあちこちに立っている。

ハリヨというのは、体長4〜7cmの、この地域の清流に生息する淡水魚である。
梅花藻(ばいかも)というのは、水温15度前後の湧水に生える水草で、初夏に梅の花のような白い花
が咲くので、その名が付いているそうである。
それだけ、この地の水がきれいだということである。


醒ヶ井宿の中心を流れるきれいな小川








地蔵川
醒ヶ井宿はこんなかんじの所である








文化庁のホームページで見た登録有形文化財がここにも一つある。
醒ヶ井へ来た楽しみの一つは、それを見ることである。

それが、この旧醒ヶ井郵便局である。
この郵便局は大正4年に米人の設計で
建てられた木造洋風建物。
昭和9年に現状のように外側を木造モルタル
張りに改築された。
いつごろまで郵便局として使われていたので
あろうか。
現在は醒ヶ井宿資料館となっている。
1階に入るのは無料である。、
2階は有料で、下記の旧問屋場と共用で
入館料は200円となっている。



地蔵川に面した旧問屋場
醒ヶ井宿資料館の一部として公開されている。




本陣跡として、本陣樋口山という家があった。今はごく普通の家である。間口も狭いので昔の本陣の
ままとは、とうてい思えないくらいである。

この辺りで何人かの、家族連れらしい観光客らいし人に会った。

醒ヶ井宿を通り過ぎ、町はずれのよろず屋風の食料品店でペットボトルのお茶を買った。
主人が「今日はまた、どこから来ていただいたんですか」と聞く。
旧中山道を赤坂まで歩くと言うと、「この前の日曜日も数人の人が寄ってくれましたが、その人たちは
前の日に近江八幡の武佐に泊まって、今日は関ヶ原まで歩くと言うておられましたな」と言う。
「武佐から関ヶ原ですか、それはすごいですな」と私はお世辞のつもりで答えた。
「お気をつけて」と言う愛想のいい主人に送られて、表へ出てまた歩き出す。
歩きながら考えた。「武佐から関ヶ原やて」。
武佐から数えると、武佐・愛知川・高宮・鳥居本・番場・醒ヶ井・柏原・今須・関ヶ原、なんと8宿も
あるじゃないか。距離にすれば四十数キロあるぞ。冗談じゃない。そんなに歩けるか。
江戸時代の旅人顔負けの強行軍だ。
ここで、私は2〜3年前、やはり旧中山道の中津川で会った、あのクレージィな連中のことを
思い出した。ゴールデンウイークの休みを利用して、丸1週間で京都から東京まで旧中山道を歩く
というメイニアックな数人のことである。ひょっとしたら、あの連中かもしれんな。
その連中のことを食料店の主人からもう少し詳しく聞いておいたらよかったなと思ったが、もう遅い。

今日も快晴だ。雲一つないというわけではない。いくつかの雲がぽっかり青空に浮かんでいる。
日差しは強いが、風はある。首筋を直射日光から守るため、帽子の後ろに差し込んでいるハンカチ
が風にひらひら動く。それくらい風がある。ありがたいことだ。この風でだいぶ助かる。

柏原宿の手前に、北畠具行墓という案内があった。
中山道から少し山の中へ入った所にあるようだった。
日本史に弱い私は、北畠というから南北朝時代の南朝方の武士かと思った。
後醍醐天皇の側近だった人物だったそうである。鎌倉幕府に対する反乱が失敗した後、後醍醐天皇
が隠岐へ流された。側近だった北畠具行は、助命は許されず、この地で処刑された。
その様子は「増鏡」に出ている。具行はひじょうに潔い態度だったとか、「増鏡」ではずいぶん好意
的に書いてあるそうである。

11時過ぎ、柏原宿に着く。

本陣跡は小さな案内板があるだけである。普通の家になっている。
昔の本陣は今の3軒の家に分けられたいうことが書いてある。

ここで唯一現存する郷宿跡があった。


元郷宿の加藤家
郷宿というのは、脇本陣と旅籠屋の中間に
当たる格式の高い宿だったそうである。




柏原宿歴史館というのがあった。元柏原宿の建物を利用して公開してものである。
中へは入らず通り過ぎる。

そこから少し行った所に、柏原銀行だったという古い建物があった。


柏原銀行跡
明治中期開業、昭和初期廃業、現滋賀銀行
の先駆となるという解説あり






伊吹堂という伊吹もぐさの店があった。
いかにも江戸時代からの商家のようだが、
今でも営業しているのだろうか。




柏原を出ると、中山道は少し山へはいる。道は山裾を巡っていくかんじである。

12時少し前に近江と美濃の国境に到着。


国境は写真の真ん中下部に見える細い溝で
ある。これだけのものが国境である。

右側の木の立て札には
「近江美濃両国境寝物語近江国長久寺村」
とある。
左側の石碑には
「寝物語 美濃国不破郡今須村」とある。




この道の反対側に「寝物語の里」という碑がある。
寝物語というのは、この細い溝を挟んで両国の番所、旅籠があり、その壁越しに寝ながら他国の人
と話ができたので、この名が付いたとか。
昔からの中山道の名所である。
太田道灌がこの地を通った訳ではないと思うが、
「ひとりゆく 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに」
という、この地を詠んだ歌がある。
また、源義朝をここまで追いかけてきた常磐御前、源義経を追ってきた静御前の伝説があるという
ことである。

また、国境に、芭蕉の「正月も 近江と美濃や 閏月」という句碑が建っている。
貞享元年2月野ざらし紀行の芭蕉がこの地を通った時吟んだ句という解説碑あり。


国境を越え、いよいよ美濃・岐阜県だ。しかし美濃も東西に随分長い。旧中山道を東へ東へ歩いて
いって、次の国境は、中津川市の落合宿を越え、落合の石畳のずっと向こうに「これより信濃路」と
いう島崎藤村揮毫の碑があった所だ。
あそこまで行くのに何日かかる。多分、これから5回目くらいの旧中山道ウオーキングで通過する
のでないか。
そんなことから、これから先の長い旅のことを思った。

12時15分、今須宿着。
静かな田舎町である。本陣、脇本陣を含め旅籠が16軒しかなかった、小さな宿場である。


唯一残るのが、この問屋場跡である。



本陣跡は小中学校になっている。

他に何もないところである。


今須宿を出ると、国道21号線に合流する。しかしすぐまた旧道に入る。
少し坂を上り、日陰のところで、リュックを下ろし、小休憩する。日焼け止めローションを出して、
腕や首筋に塗りたくっていると、横へ車を止めて話しかけてきた人がいた。
「この道は旧中山道ですかな」と私に聞いてきた。話を聞くと、福井の人で、車で旧中山道を訪ねて
いるそうである。この前は草津から醒ヶ井まで来た、今日はその続きだということである。
普通の道路地図を見ながら走ってきたそうで、この道が旧中山道かどうか不安だったので、
私に聞いたらしい。「道路地図だけだと、旧道はわかりにくいでしょう」と言うと、
「どうもそうですな」と、やや不安そうであった。私よりかなり年配とお見受けした。
狭い道に、向こうからも車が来たので、「どうも失礼しました」と挨拶されて車を発進された。

旧中山道の脇に「常磐御前の墓」というのがあった。常磐御前というのは、ご存じのとおり源義朝の
妻で牛若丸(源義経)の母親である。
牛若丸が鞍馬を逃げ出したとき、常磐御前がこの地まで牛若を追ってきたが、この地で山賊に殺さ
れたので、それを哀れんで土地の人が供養のため建てた墓だという。
ここに墓があるくらいだから、常磐御前にまつわる何かがあったのかもしれないが、これはちょっと
信じがたい話である。
というのは、ちょうど今、日経新聞朝刊に池宮彰一郎の「平家」という小説が連載されている。
それによれば、義朝が平治の乱で敗北して東国へ落ちる途中尾張で殺された後、常磐は牛若など
3人の幼児を連れて自首してくる。子供3人の助命と交換に、常磐は平清盛の愛妾となる。
その後常磐は、清盛のブレーンとして清盛を強力にサポートしていた大蔵卿藤原長成の妻となる。
そこでそれなりに幸せな生を全うすると思われる。
だから牛若が、奥州の藤原秀衡の配下の金売り吉次に唆されてか、拐かされるかして、
(この小説ではその筋書きを書いたのは後白河法皇となっている)鞍馬山を逃げ出した時に、
常磐が追っていくわけがない。
私は、この墓は常磐を長成の妻とするために歴史上から抹殺するためのでっち上げだと思う。


関ヶ原の町に入る手前に、不破の関跡というのがあった。
「東山道の美濃不破関は東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発(あらち)関とともに、
古代律令制下の三関とされ、壬申の乱(672年)の後に設けられ、延暦8年(789年)停廃のされた後
も関守がおかれた」という案内があった。
不破関記念資料館というが、すぐ横にあった。

関ヶ原は関ヶ原合戦の史跡が多い。関ヶ原というのは、私のように大阪生まれ育ちのものに
とっては、それこそ「けったくその悪い」土地である。だから関ヶ原へは来たくないし、
その名前を言うのも嫌だ。
しかし通り道だから、しかたなく通るのだ。


最初に見た史跡の案内は、「大谷吉継の墓」だった。
大谷吉継は石田三成の親友というのか、数少ない、おそらく唯一の支持者だったと思われる武将で
ある。中山道の近くなら、寄ってみようかと思ったが、だいぶ離れた山の中、小高い山の上にある
ようだった。この墓を訪ねるとなると、ちょっと時間がかかりそうだったので、やめることにした。


このホームページを書く関係で、インターネットで調べたうちに、石田三成に関してちょっと興味ある
ホームページがあったので、それを2件紹介する。


その一つは、東軍徳川家康対西軍石田三成の対決という図式に疑問を呈するものである。

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「西軍の主要武将、とくに石田三成や宇喜多秀家に関しては、実際どのような役割を果たしたのか
よくわからないのです。『関ヶ原始末記』や『関ヶ原軍記大成』など江戸時代の歴史小説は石田三成
の動向を大きくあつかっていますが、それがどの程度史実を伝えているかは疑問です。
だいいち、関ヶ原本戦で、石田三成本陣の笹尾山は西軍の最北端にすぎません。
それだけでも、三成の位置がどのようなものだったのかわかろうというものです。

三成の役どころについては、外国人たちのほうがむしろ冷静に正直に眺めていたようです。
イエズス会の宣教師は『1600年度年報補遺』の中で、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が大坂・京で
引き回されるありさまを、「先頭には治部少輔(石田三成)が、あたかも同盟軍の首謀者かつ頭首と
して配置されていた」と記し、朝鮮側に残る記録でも、当初こそ三成を首謀者として描いていますが
、1607年江戸を訪れた使節の記録は、はっきり毛利輝元を首謀者として記述し、三成は配下の
一武将として登場するにすぎません。当時の外国人からみても明らかなフレームアップを今日まで信奉し
続ける必要はさらさらないのです。
10月1日、石田三成は首謀者として処刑されてしまいますが、小西行長とともに、毛利輝元から全幅
の信頼を寄せられていた安国寺恵瓊も処刑されています。
9月15日の関ヶ原本戦で実際の戦闘に加わらなかった大名たちがせいぜい所領没収ですまされた
ことを考えると、高齢の僧籍大名をわざわざ処刑することで、毛利家が深くかかわっていたことを
葬り去らねばならなかった事情がみてとれるでしょう。             」

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もう一つののホームページは、関ヶ原後の三成を紹介しているものである。

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(合戦で西軍が大敗した後、石田三成は逃亡するが、田中吉政によって捕らえられる。)
「田中吉政は三成を大津の家康のもとに送り、家康は三成を本多正純に預けた。ここでもいくつかの
有名なエピソードが残されているので、まとめてご紹介する。

 まず、三成と本多正純のやりとり。
 正純曰く、「秀頼公はまだ幼少で事の是非をわきまえておられるはずはない。私心による戦を
起こしたがために、このような恥辱を受ける羽目になったのではないか」
 三成も言い返す。「農民に生まれてより一城の主としていただいた太閤の御恩は例えようもない。
世相を見るに、徳川殿を討たずば豊家の行く末に良からじと思い、戦を起こしたのである。
二心ある者のために、勝つべき戦に敗れたのは口惜しい限りじゃ。さなくば汝らをこのように絡め
捕らえておったであろうに、我が敗れたるは天命である」
 正純はさらに「智将は人情を計り時勢を知るという。諸将の一致も得られず、よくもまあ軽々しく
戦を起こしたものだ。敗れた上に自害もせず捕らえられたのは如何に」と揶揄するが、逆に
 「汝は武略を知らぬも甚だしい。人手に掛かるまいと自害するのは葉武者のすること。
汝のような者に大将の道など、語るだけ無駄というものじゃ」と言い返され、返す言葉がなく赤面した
という。

 次に、三成と小早川秀秋のやりとりである。秀秋は三成が捕らえられていると聞くと、細川忠興の
制止も聞かず三成の面前に出て行ったのだが、すかさず三成から言葉鋭く罵倒される。
「汝の二心を知らなかったのは愚かであった。しかし約束を破り、人を欺いて裏切ったことは武将の
恥辱、末世まで語り伝えて笑ってやろう」
 案の定、秀秋もまた返す言葉がなかったという。

 また福島正則が三成の前を通りかかったとき、「無益の戦を起こしてその有様か」と嘲笑すると、
三成は「おのれを生け捕って縛れなかったのは天命である」とやりかえしたという。

 十月一日、三成は小西・安国寺とともに京都市中を引き回された上で、六条河原の刑場へ
運ばれた。三成は処刑直前にも、差し出された干し柿を「痰の毒だから」といって断ったという有名な
話がある。                           」

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大谷吉継はこの地で討ち死にしたから墓があるのは当然としても、京都で処刑された三成の墓は
どこにあるのか。たぶん京都のどこかにあるのだろう。

私が、自分のホームページで番外編として紹介した吉田絃二郎「わが旅の記」(角川文庫版)の中に
「高野山遍路」という一文があり、その中に次の一節がある。

「奥の院へ通ふ両側の大杉の木立の中の墓場に於いてわたしは光秀の墓とと三成の墓とを
一番印象深く拝んだ。      ーーーーー中略ーーーーーーーーーーーーーー
光秀のための、三成のための供養塔あるがために高野のあの杉の墓場が、どれだけ美しい人間の
心を語ってゐるか知れない」と書いている。

高野山には、たくさんの有名人の墓、立派な墓、大きい墓があるだろうに、破れし者、明智光秀・
石田三成の墓にもっとも心惹かれたという吉田絃二郎の心情を、私は買いたい。


さて、関ヶ原宿については、脇本陣の表示があった程度で、この町は中山道関ヶ原宿ということ
についてはあまり関心がないらしい。
関ヶ原合戦だけで、充分観光地としての材料があるからだろう。



町並みとしては、この「関ヶ原たまり」という
看板の店が興味があっただけである。
奥行きの深い店舗・工場のようである。
たまりというのは、濃口の醤油のことである。




関ヶ原から次の垂井までは約6kmである。
関ヶ原の町はずれで国道21号線と分かれて旧道へはいる。しばらく旧道を歩き、また21号線を
反対側へ渡ったところに垂井の一里塚があった。立派な一里塚が残っている。草津から歩いて
きて、昔の一里塚が現存するのを見たのは初めてである。
その写真を撮り歩き出す。また、国道21号線、JR東海道線を渡ると、垂井の町はもうすぐである。


垂井の町には結構、古い家が残っている。
その一軒に案内板があり、それを見ていると、前に車を止めて、案内板を見にきた人がいた。
先ほど会った福井の人である。しばし雑談。
日帰りで行けるところまで、旧中山道をたどっていくということである。
今朝も福井を出てきたらしいが、「高速を走ってきたのか」と聞くと、高速はお金がかかるので
使わないとか。
「それだけ走っても車の運転が苦にならないのですな」と言うと、
「私は75歳ですが、車を運転するのがストレス解消法です」と言われる。
車を見るとフィアットという車である。「フィアットですな」と言うと、日焼けした顔をにっこりと
ほころばせて、「福井で走っとらん車を持ってこいと車屋に言うと、この車を持ってきよりましてな」と
おっしゃる。
車で走ってきたのに、歩いてきた私と一緒になったのがおかしいと思ったら、この先のところで
遅い昼飯を食べてきたそうである。そこでまた、この町のことをいろいろ教えてもらってきたそうで
ある。
「しかし、こうして草津から来ますと、滋賀県のほうがいいですな」と言われる。
多分滋賀県内の中山道のほうが、旧中山道の面影なり雰囲気、史跡などが残っているということ
だろう。私も全く同感であった。
「じゃあまたどこかでお会いしましょう」と言って別れた。


私は垂井の町並みの写真を撮りながら歩く。


昔「かめや為八」という名前の旅籠だった家







町の中心の交差点に立派な土蔵のある商家
があった。すごい家である。







交差点で上の土蔵付きの家を前から写す





町はずれの垂井町追分の道標
左中山道、右美濃路

木の陰になるが、昔の石の道標がある。




この場合の美濃路というのは、一般的な岐阜県にある街道をいうのではなく、固有名詞である。
美濃路という道があったのである。美濃路は名古屋の宮宿から名古屋宿、清洲宿、稲葉宿(稲沢)
、萩原宿(一宮)、起宿(尾西)、墨俣宿、大垣宿とたどり、ここ垂井で中山道に合流する。
旧東海道の宮宿から桑名宿まで七里の渡しを船で行くのを嫌がった人が歩いた、旧東海道の
脇往還である。
私もこの美濃路を2回に分けて、愛知県西枇杷島町から大垣まで歩いたことがある。
一部、道がなくなっているところもあり、道がうまくたどれないところもあった。

垂井の追分で時計を見ると、2時47分である。次の赤坂宿まで約5km。
JR美濃赤坂駅での次の電車の発車時間までちょうど1時間である。それを逃すとまた1時間待たね
ばならぬ。
1時間あれば5kmは歩けるだろうと急ぎ足で赤坂へ向かうことにした。
どんどん歩く。

赤坂へ来てみれば、ここも古い町並みが残っている。電車の時間も気になる。
あちこちでデジカメのシャッターを急いで押す。

次回来たとき、ゆっくり写真を撮り直すことにして、駅へ小走りで急いだ。


赤坂宿の古い商家




赤坂の町並み




JR美濃赤坂駅着、3時45分、6時間15分、28.2km


美濃赤坂駅





3時47分発の電車にぎりぎり間に合った。
大垣まで駅二つである。大垣駅で缶ビールを買って、東海道本線の快速に乗った。
大垣発ではなく、米原発の電車なので結構混んでいた。
空席を見つけ、例によって家から持参のつまみをぼりぼり食べながら、缶ビールをゆっくり飲む。

家へ帰ったのは6時5分前だった。今日の総歩数は46,040歩だった。