近江鉄道五箇荘駅〜中山道〜愛知川宿〜高宮宿〜鳥居本宿〜番場宿〜JR醒ヶ井駅(28.0km)

中山道の続きを歩こうとして、近江鉄道五箇荘駅に降り立ったのは午前10時20分だった。
新しい駅舎のトイレを借り、無人の待合室で出発の準備を整えた。デジカメ、ラジオ、ICメモリーを
取り出し、逆に長袖のシャツをリュックにしまい、歩き出したのは丁度10時半である。
帽子、サングラス、半袖のTシャツ、ハンカチを帽子の後ろに挟み込むという格好である。

その前に余談だが、五箇荘に着くまでのことを少し書いておく。

近江鉄道は一つは東海道本線の米原を起点として、もう一つは近江八幡を起点として近江平野を
つき切っている私鉄である。本線は米原をまっすぐ南下し、JR草津線の貴生川まで走っている。
八幡線は近江八幡から東へ向かい、八日市で本線につながる。五箇荘は八日市の一つ手前、
米原から八つ目の駅である。途中、鳥居本、高宮、愛知川などこれからわたしが歩こうとするところ
を通過してきた。電車に乗ってやってきたところを歩いて戻っていくわけである。時間の無駄、お金
の無駄、体力の無駄であるとも言える。しかしそれが街道ウオーキングの面白いところでもある。
お金、時間にかえられないものがある。

米原を出て彦根駅のすぐ手前で電車はトンネルをくぐる。平野を走る電車だからトンネルは珍しい。
多分この私鉄で唯一のトンネルではないかと思う。このトンネルがあるのが、佐和山である。
この山にあったのが、佐和山城で、石田三成の居城である。よく言われるように「石田三成 過ぎた
るもの二つ、島左近に 佐和山の城」。佐和山城というのはよく聞く名前だが、こんなところにあると
は知らなかった。彦根の町のすぐそばである。彦根城とはすぐ目と鼻の先だ。これから見ても彦根城
は、関ヶ原の後、徳川の世となって建造されたのだと思う。


近江鉄道の米原駅はターミナルと思えない
ほど寂しい、くすんだ駅である。
完全無人駅ではないが、午後4時か5時に
は無人駅になる。

電車が1台停まっていた。しきりに写真を
撮っている人がいる。こんな電車がちょっと
珍しいのかもしれない。



五箇荘で降りて、見覚えがある道を愛知川に向かって歩き出す。
やはり中山道という雰囲気はある。昔風の家が残っている。酒屋さんがあったが、元の家の大半を
残し、玄関だけ今風にしてあった。その他、総二階で白壁の土蔵を持って家がところどころある。

今日は雲一つない快晴である。全く日陰がない平野の中の道である。しかしカンカン照りでない。
しかも風もそこそこある。まさにさわやかな日とは、今日のような日のことである。

事前に地図を調べたところ、今日のコースは国道8号線と平行して走っており、ほとんど8号線を歩く
必要がない。今日のコースに限りほとんど100%旧道を歩くことになる。これが大変嬉しいことだ。

愛知川という大きい川を渡るのに旧道は橋がないので、ここだけ8号線に合流する。300メートル
以上はあると思われる長い橋である。下を見るとほとんど水がない。川というより水たまりが所々に
あるという感じである。

橋を渡ってしばらく国道を歩くが、やがて旧道に入る。そこにアーケードがあり、中山道愛知川宿と
ある。
すぐ愛知川宿の町並みとなる。

今日のウオーキングの準備として、文化庁のホームページで調べたことがある。「登録有形文化財」
が今日のコースの途中であれば、それを是非見てきたい。
それによれば、愛知川に2軒あるとわかった。

その1軒の竹平楼という日本料理の店が
あった。
そのご主人らしい人が表におられたので
話しかける。
「登録文化財になっているのは、この建物
ですか」と聞くと、
「いや、明治天皇が泊まられた奥の広間と
その奥の建物です」ということだった。



宿泊客なら見せてもらえるのかもしれない。私は別に見たいとも思わなかった。
同じく登録文化財になっている「藤居本家」というのは、この近くにあるのか」と聞くと、藤居さんは
8号線の向こう側でここからはすこし離れているとのこと。
明治天皇が泊まられたという格式のある店にしては、このご主人は給食の弁当らしきものが入った
箱を軽四輪バンに積み込んで配達に出て行かれた。
私は宿の中心地の方向へ歩いていった。向こうから中山道ウオーカーらしき人がきたので、
話しかける。年は私より少し若い感じである。

以下この人の話である。

「神奈川県の横須賀に住んでいる。今日は彦根から歩いてきた。行けるところまで歩いて今日は
家へ帰るつもり。東海道を去年歩いた。中山道は今日で18日目である。東京を発ち、高崎辺りまで
は日帰りで往復していた。それ以降は旅館を行き当たりばったりで探して泊まる。土日は仕事を、
小売業の手伝いをするので、土日は働き、月曜日は休息し、火曜日から金曜日まで歩くという
パターンである。1日30kmくらい歩く。夕べは彦根、その前は垂井、岐阜、可児で宿泊して歩いて
きた。中山道は碓氷峠、和田峠など道はアップダウンがあり、東海道に比べると疲れるが、
古い町並みが残っているところが多いので、それだけ楽しみである。草津〜京都は東海道で歩いて
いるが、もう一度歩くつもり。東海道は京都止まりではなく、伏見から大坂まで行ってたらしい。
東海道は五十三次ではなく、五十七次だったらしい。自分も大坂まで行ってみるつもりだ。」

そんな立ち話を洋品屋さんの表でしていたら、その洋品屋さんの奥さんが、どこからこられましたか
と話に入ってきた。「この人は東京から歩いてこられたのですよ」と私が言うと、その奥さん「わぁすご
い」「お茶でも飲んでいって下さい」と言われる。「いやぁ、けっこうですよ」と私も横須賀の人も時間
が惜しいから、お断りするが、「ちょっと待ってください」と言われて、家の中へ駆け込まれた。
ご主人を連れて、麦茶を持ってきてくださった。麦茶を飴をごちそうになり、ご主人の話を聞く。
丁度向かいの旧脇本陣というコンクリートの建物は元郵便局だったそうである。
昭和40年代まで使っていた。ひさしに郵便のマークがあるでしょうと言われて見ると確かに郵便の
マークがある。この郵便局の二階には以前は電話局も同居していたとのこと。
郵便も電話も同じ政府の郵政事業だった時代のことであろう。
私も随分むかし電話が電電公社として独立する前は郵便局の中に電話局もあったのを覚えている。


この旧郵便局の左隣の古い建物は元銀行
だったそうである。



10月にはこの辺りの祭りがある話、今年は特に賑やかになりそうな話など、いろいろ聞いたがきりが
ないので、その辺で失礼することにした。そこで横須賀の人とも左右に別れて、私は次へ進む。




脇本陣跡からすこし進んだところにまた、
昔の銀行らしい建物があったので写真を
撮った。



愛知川宿を出てまた中山道を歩く。街道沿いに白壁の土蔵を持った総二階の家が並んでいる。
けっこう裕福な家が多いのではないかと思った。

豊郷町というところに入った。「豊郷の宝、豊小を守れ」とかいう看板をあちこちに見る。
豊郷にとても立派な小学校があるということを先ほどの愛知川の洋品屋さんで聞いたがこのこと
らしい。近くにいた女性に小学校はどこにありますかと聞くと、この街道沿いにあるからすぐわかる
ということだった。



伊藤忠兵衛記念館
「伊藤忠商事、丸紅の創始者・初代忠兵衛
の100年忌を記念して、初代忠兵衛が暮らし
、二代目忠兵衛が生まれた豊郷本家を整備
、記念館とし、一般に公開することになった」
と解説がある。
この旧邸は昔のままの形で残されていると
いうことである。
横の路地からも写真を撮ったが、奥行きも
かなりある立派な邸宅である。


私は中へ入らず、先を急いだ。

しばらく行ったところに「伊藤忠兵衛」の胸像があり、そこが大きい公園になっている。
近江商人の代表する人物なのであろう。大したものである。

そこからすこし行ったところに豊郷小学校がある。

豊郷小学校
これが小学校とは思えない。
大学といっても通りそうなキャンパスである
。先ほどの愛知川の洋品屋さんが言って
おられたが、その親戚の人が、昔この小学
校にボイラー用の油を納品していたか、
ここでボイラーを炊いていたか、そんなこと
だった。
普通、昔の小学校にボイラーないから、
この町か村は伊藤忠兵衛など近江商人の
財力によって恵まれていたということなの
であろう。


「豊郷の宝、豊小の解体 絶対反対」「先人の贈り物、豊小を守ろう」とかいう看板が出ている。
この立派な小学校も最近は児童も減ってしまって、学校を解体して、この敷地などを再活用すると
いう動きもあるのだと思う。それに対する反対運動が起こっているということだと思った。

近江平野の中の一本道をどんどん歩いて、高宮宿に入る。午後1時過ぎである。

「中山道高宮宿」という看板が、橋の柱にかかっている。立派な橋だが、下の川には水がない。
街道に沿って商店街が続く。一軒の家の前に本陣跡の説明板があった。今では普通の家であるが
、門だけが昔のままだそうである。その向かいに「高宮宿 ふれあいの館」とあり、いろいろ展示して
いるようなので、中へ入った。


左が高宮宿ふれあいの館

右が旧脇本陣

おばさんが二人が歓迎してくれた。むちん橋という橋と町並みの復元ミニチュア、昔の商店街のポス
ター、商店で使われていた小道具などが展示されている。
「お茶でも飲んでいってください」ということでお茶をよばれた。ついでのリュックを下ろし、トイレを借り
る。店の横幅に比較して、奥行きの随分深い店である。トイレはずっと奥にあった。
「ここは前はなんの店だったですか」と聞くと、元郵便局だったとのこと。しかも隣の家がその自宅で
、昔は脇本陣だったとか。
「へぇ、愛知川と同じか」。
元々、郵便局というのはその土地の名士がやっていたのであろう。

「ここへ名前を書いてほしい」とノートを差し出された。ノートを見ると10人くらいの記名があった。
喜んで住所と名前を記入した。しばらくこの宿の話を聞いた。この方たちは順番のボランティアで、
ここの「ふれあいの館」の世話をしているらしい。
「高宮」というのに、関西訛りの私は「たかみや」の2番目の「か」にストレスを置くが、この辺りの人は
「たかみや」の一番前の「た」をかなり強く言う。それが私には奇異に聞こえる。しかし奇異に聞こえ
るほど地元の人に接すると、「はるばる遠くに来たものだ」という旅人としての感慨をもよおすのであ
る。


お礼を言って、そこを出てまた歩き出す。「ふれあいの館」でもらった案内によれば、高宮宿は中山
道64番目の宿で、本陣1、脇本陣2、旅籠23軒があった。これは本庄宿に次ぐ中山道第2の大宿
だったとか。ここはまた、多賀大社への門前町としても賑わったとある。


高宮宿商店街

商店街の写真を撮った。
私はこういう商店街が好きである。
今の大都会にはこういう商店街が残って
いないのが、寂しい。こういう昔風の商店街
(昭和30年代くらいまではどこにでもあった
商店街)に出会えるのも、旧街道ウオーキ
ングの楽しみである。



町の真ん中に、大鳥居があった。中山道と多賀道の交点である。多賀大社の一の鳥居というが、
神社はここから3kmほどある。かなり離れている。昔の人なら何の苦もなく歩くところだが、
今のものには歩くには遠すぎるだろう。昔の人も多賀大社へお参りして、この宿へ泊まった人も
多かったのでないか。中山道の通行客とあいまって、この宿が繁盛下のだと思う。


1時半も過ぎ、少しお腹がすいてきたかなと思い始めた。今日はバナナを持ってくるのを忘れたので
昼飯なしである。コンビニがあればアイスクリームでも買おうと思いつつ、歩く。今日はずっと旧道を
歩いているせいか、コンビニは一軒も行き当たらない。そういう日もあるものである。
ダイエーのハイパーマートという看板があったが、旧道からその店まで数百メートルあるようなので
、寄るのをやめて歩き続ける。
そのうちに中山道に面してスーパーがあったので立ち寄った。チョコアイスとクリームパンを買った。
パンは食べないような気がしたが、念のためと思って買った。(結局食べずに家へ持ってかえった)

チョコアイスを食べながら歩いていると、向こうからまた中山道ウオーカーらしき人がやってきた。
帽子、サングラス、半袖シャツ、リュック、大きめのハンカチを帽子の後ろに差し込んでいる格好と
いい、私と同じである。年頃も私よりすこし上か。しばし雑談。


やはり東海道を去年済ませ、中山道を歩き出したそうである。今日は16日目とか。通し歩きらしい。
今日は柏原から歩き出し、愛知川泊まり、明日は草津泊まり、明後日はいよいよ京都である。
私は、中山道も草津〜京都は東海道と同じだから、歩かなくても良さそうの思うが、そうでもないらし
い。草津〜京都はたまたま東海道と同じ道だというだけで、中山道は草津で終わりではない。
ゴールはあくまでも京都である。東から来た人は特にそういう意識があるようである。
草津〜京都は一日のコースだ。ここまで来てたった一日をケチりたくないというのが、その心境でも
あるだろう。この人もそんなことをいっておられた。あくまでも京都がゴールである。旅のガイドブック
は、先ほど愛知川であった人と同様、児玉幸多さんの「中山道の歩き方」とかいうシリーズである。
6冊になっていて1冊1600円である。この人はその本をコピーして、必要な箇所をマーカーしておら
れた。

しばらく意見交換して、お互いの健闘を期し別れた。

やがて東海道新幹線の高架をくぐり、新幹線を左に、名神高速を右に、その狭い間を中山道は
まっすぐ北へ向かう。


やがて鳥居本宿に午後2時50分に着いた。

ずっと町並みは続くが、意外と何もないところである。
本陣跡も空き地にちゃちな小さな案内板が、お義理のように建っているだけである。


昔の合羽屋の看板を出している家
(今もこの商売をしているわけではないと
思う)






街道が大きくカーブするところに、
毒消し「神教丸」本舗である有川家がある。

江戸時代からこの薬を売っているのだと
思う。横からの写真も撮ったが奥行きも
相当深い家である。「神教丸」と書いたトラッ
クが止まっていたから、この薬は現役で
活躍しているのであろう。




鳥居本を過ぎると、近江平野と別れて一転して、山へ入っていく。擂針峠という峠である。
近江の中山道では珍しい峠である。先ほどの方は峠というより坂道ですよと言っておられたが、
それでも午後3時を過ぎ、疲れてきた身にはたとえ50メートルの登りでもこたえる。
峠を過ぎたところに集落があり、そこからしばらく名神高速に沿って歩くことになる。


坂を下っていったところが番場である。

番場宿と言っても本陣、脇本陣それぞれ1軒、旅籠が10軒の小さい宿だったようである。
ごく普通の田舎の村である。

ここには何もないので、数百メートルの遠回りになるが、名神高速の高架をくぐって、蓮華寺という
お寺に寄ることにした。この辺りでは由緒のあるお寺のようである。


このお寺の裏山に「番場の忠太郎」にちなんだ地蔵尊が
ある。その写真を撮りに行った。
番場の忠太郎というのは、ご存じ長谷川伸の名作「瞼の
母」に出てくる男である。
どうして番場になったのか知らないが、この地蔵に「親を
たづぬる子には親を 子をたづぬる親には子をめぐりあ
わせ給え 昭和33年 長谷川伸」とある。





また、旧中山道に戻り、醒ヶ井へ向かう。名神高速の米原ジャンクションをくぐり抜けた辺りから家が
ずっと並んできて、町に近づいてきた気がする。
出た国道は8号線ではなく21号線になっている。それを横断してしばらく旧道を歩き、また21号線に
出る。

当初予定より30分遅くなったが、5時3分発の電車に乗れそうなので、時計を見ながら早足で歩く。
醒ヶ井宿の町並みは今度来たときに見ることにして、醒ヶ井駅に直行することにした。
5時ジャスト醒ヶ井駅着、6時間半、28.0km

駅へ入って驚いた。この東海道本線の駅が無人駅だ。無人駅はいいけど、駅の売店まで閉まってい
るではないか。「えっ、うそやろ」と思わず、叫びたくなる。缶ビールが売ってないのだ。
慌てて表へ飛び出して、隣の建物に飛び込む。この辺りの物産販売所らしい。
その奥に缶ビールがあった。500MLはないがしかたがない。350の缶ビールをつかんで
駅に戻って階段を駆け上がる。隣のホームに降りたとき、丁度電車が入ってきた。

けっこう混んでいたが空席を見つけ、やれやれ。汗と荒い息が収まるのを待って、つまみをぼりぼり
食べながら、ゆっくりちびちび缶ビールを飲む。
飲み終わってしばらくしたら、そのまま眠り込んでしまった。
車内放送で名古屋へ着いたことを知らされて慌てて電車を降りた。

午後7時15分帰宅、今日の総歩数46,410歩。

以上