平成14年3月17日

近鉄新大宮駅〜奈良女子大〜歴史の道〜佐紀東町〜平城京跡〜奈良市役所、
奈良町(14.7km)



私の泊まったホテルは近鉄新大宮駅のすぐ北にあるホテルである。いつもようにインターネットで
予約したホテルである。昨日ホテルへ来て驚いた。このホテルの丁度真前に新しくビジネスホテル
ができ、4800円朝食無料と書いた大きい垂れ幕がぶら下がっている。何階建てか、はっきり見なか
ったが、かなり高い建物である。私が泊まったホテルは朝食付きで6500円(税別)だから消費税を
入れると1800円近い差となる。私の泊まったホテルが朝食がもうひとつだったから、この4800円のホ
テルで充分ではないかと思った。

朝、8時40分にホテルを出た。今日は平城京跡を見て、そのまま歩いて西ノ京へ行って唐招提寺、
薬師寺を見てこようかと思っていた。その前にすこし遠回りになるが、奈良女子大の写真を撮って
こようと思って歩き出した。
新大宮のホテルを出て、すぐの東西の道を東へ向かう。この辺りはマンション、アパートの間に畑が
あったりして、奈良市のうちでは新しい街である。JR奈良線の踏み切りを越えた辺りからは所々に古
い家が残っている。芝辻町、内侍原町というところでは結構古い町並みが残っていると思った。
勿論それぞれ現業中である。


その中の一軒がここに写っている医院である
。いかにも古そうな家である。












奈良女子大の門前
道具屋さんとその向こうの小さな建物は交番
である。今は使われていないようだが、何か
なと思って近づくと警察のマークが付いていた







奈良女子大正門
向こうに見えるのが記念館





奈良女子大記念館

この写真を撮りたくて、ここへきた。
入口の守衛の人に記念館の写真を撮らせて
欲しいというと建物の中へ入らないでください
と言われた。
構内へ入れたので、喜び勇んで記念館の写
真を撮ったが、もうすこし落着いてあちこち
動いていろいろな角度から撮ればよかったと
後悔している。


記念館は明治42年建設、木造の優雅な建物である。元の奈良女高師の本館。
春と秋には一般公開されているとか。
この記念館、正門、守衛室が重要文化財の指定を受けている。
この三つはよく似た感じの色合いである。

大学を出て北へ向かうが、この構内が広い。キャンパスが終わったところを塀沿いに西へ向かう。
しばらく歩いたところで川に出た。佐保川である。川沿いにすこし歩いたところに、いかにも古そうな
二階建ての建物があった。昔教室として使われていて今は物置にでもなっているようであった。

駅の観光案内所でもらった地図には「歴史の道」というのがある。すこし遠回りになるが、ここから
その道を通って平城京跡へ行けるので歩くことにした。

ウワナベ古墳を通り過ぎたところに航空自衛隊の駐屯所があった。その前のバス停に丁度バスが
発車時間待ちをしている。奈良駅行きのバスである。時刻表を見ると後5分ほどで出る。
私は今日何をしたいのかと自問した。私はハイキングをするため奈良へ来たのではない、ハイキング
コースなどを歩かずに、このバスに乗って奈良駅まで行って、昨日歩いていない奈良の街を歩き古
い町並みを探して写真を撮るのがいいのではないかとも思った。
しばらく考えたが、折角だから平城京跡まではとにかく行ってみよう。その後はまたその時の時間を
見て考えることにした。
コナベ古墳を過ぎ、磐之媛命陵という仁徳天皇の皇女の陵墓があった。ちゃんと宮内庁の管理に
なっている。「歴史の道」はこの陵をぐるりと一周する形であるが、私はこの陵の南の辺をショートカッ
トして、水上池という大きい池の西側に沿って進んだ。
すると右側に白い土蔵が見える集落があったので、ひょっとして、いい写真が撮れるかもしれないと
思ってその集落へ入っていった。その集落を通っている細い道が「歴史の道」になっていた。
結果的に私は近道をしたわけだ。

ここはどこにもあるような田舎の町というのか、村というのか、部落というのか、そういうところである。
私が去年の夏訪れた和歌山の田舎とそっくり同じような雰囲気の場所である。

懐かしい心安らぐ田舎である。家の表札を読むと奈良市佐紀東町とある。




















ここでは何十年も前から変わらない生活がある。確かにどの家にも車があるし、ときたまこの狭い道
を車が通るが、本質的なものは何十年も同じ生活、環境である。私はここへきてよかったと思った。
白い土蔵があり、赤茶けた板塀がある。風雨に晒されちょっと曲がりかけた塀がある。小さなお地蔵
さんが二つ三つ並んでいる。それぞれ赤ん坊の涎掛けのようなものを描けてもらっている。
一メートルくらいの大きい石がお地蔵にならんでやはり涎掛けが掛かっている。それぞれの前に花
や果物が供えられている。
露地の向こうから犬が一匹もたもたとやってきて、それ以上私に近づかない場所まで来てそこで
腹ばいになってじっと私を見ている。
露地を歩きながら夢中で写真を撮った。ここにいるだけで、じっとしておれないような心の高ぶりを
感じた。私の写真と文章で私の気持ちがうまく表せないのがまことに残念である。
春秋には多くのハイカーがこの道を通ることであろうが、なんの変哲もない田舎の部落である、
ここで何かを感じる人はいないかもしれない。
しかし私には懐かしくも哀しくもあるところである。
露地を歩きながら、ここが大和なんだ、入江泰吉の写真など目じゃないと思った。
入江泰吉の写真には感じられない感動、感銘がある。
しかしそれをうまく伝えられないのが重ね重ね残念である。
歩いていると向こうから青年が二人揃ってやってきた。今日は何かあるのかねと聞くと、「天理教の
宣伝に歩いているんです」と云って、よかったら読んで欲しいと遠慮がちに粗末なビラのようなものを
私に渡した。多分彼らは天理教の職員、信者ではなくて、企業から研修で派遣されているのではな
いか、研修の一環として普及活動に歩いているのでないかと思った。
部落の端辺りまで歩いて、もう一度引き返し見落としているところはないかとゆっくり歩いた。
先ほどの天理教の青年二人にまた会った。「どこか入ってくれたか」と聞くと、「いやーなかなか難し
いです」と二人は笑っていた。

ここの印象を石川啄木風に云えば
「大和なる 佐紀東町こそ 哀しけれ 白き土蔵の 露地を歩きつ」

私が古い町並みを訪ねて歩いているといっても、私が好きなのは何百年前のもの、何千年も昔の
ものではない。精々何十年前というオーダーのものだということをつくづくここで感じた。そういうことを
ここで確認できた。そういう意味で今回は自分の再発見の旅であった。

佐紀東町から南へすぐのところに「特別史跡 平城京跡」があった。
先ほどの田舎で心洗われた私には、この史跡の作り物の馬鹿馬鹿しさには我慢がならなかった。

遺跡展示館でトイレを借りた。「特別史跡 平城京跡」は私にとってトイレの意味しかない。

等間隔で石が並んでいて、門か塀かそういうものが立っている。この石が礎石というのかと思って
写真を撮った。しかし歩きながら考えたが、千年以上も前の礎石がこんなにきれいに並んで発見
できるわけがない。この史跡をつくるとき埋めた石なのであろうと思うと馬鹿馬鹿しくなった。

どんどん南へ歩いて、近鉄の線路に出た。しばらく大阪方面に歩くと踏み切りがあった。
そのすぐ横に、朱雀門の模造品が立っている。

しばらく南へ下り、すぐの道を東へ奈良駅方面に向う。

二条大路南一というところに古い家並みがあった。嬉しくなって写真を写す。





しばらく行くと、奈良そごうがあった。ここも倒産したらしい。何百台も車が入る駐車場には
一台も車がない(当然ことだが)。こんなに広い駐車場に車がないのも異常であり、不気味である。

市役所前よりバスに乗って、近鉄奈良駅に着いた。
昨日歩いた奈良町を見落としはないかともう一度歩こうと思った。

興福寺を通り、猿沢池に出る。


興福寺の塔の前

写生をしているグループがいた。
集まって昼食をとっていた。


猿沢池で和服の美人がいたので写真を撮らせてもらった。

そしたらそのグループ(おじいさん、おばあさん、お母さん、御本人、子供づれのお兄さんらしき人)の
方から自分たちの写真を撮って欲しいとカメラを渡された。
お安い御用である。その美人がうまく写るようにシャッターを押したつもりである。

猿沢池にて

和装の美人





この後、奈良町を再び訪れ写真を撮った。

1時15分、近鉄奈良駅に着き、大阪へ向かった。