平成13年12月22日
JR東海道本線蒲原駅〜旧東海道〜蒲原宿〜新富士川橋〜原宿〜沼津宿〜
ホテル(30.7km)

前日は沼津市内のビジネスホテルに泊まった。
朝少し寝坊をして出発が遅くなった。沼津発8時45分の電車で、前回のゴールの蒲原駅に
向かう。沼津から蒲原までは意外に時間がかかる。駅も八つもある。今日はこれだけ歩いて
また、ホテルまで帰ってこなければならぬ。

9時25分、蒲原駅を歩き出す。
今日は快晴である。念のため傘を持ってきたし、ヤッケも持ってきた、マフラーも持ってきた。
手袋も持ってきたが、これらはいずれも全く無用であった。
駅から少し歩いて、公民館でトイレを借り、ついでにコートも脱いで、リュックに詰め込んだ。

蒲原駅は、由比宿と蒲原宿の中間くらいに位置する。蒲原駅から歩いて2kmくらいで旧蒲原宿の
中心になる。
いくつか、ところどころに古い建物が残っているという程度である。町並みとして古いものが
あるわけではない。

蒲原宿本陣跡



元旅籠和泉屋
現在は鈴木商店という店
(万屋風の店だと思った)
丁度本陣の真正面にある。



大正時代の洋館
元歯科医院
現在は別のところに新しい医院が
ある。



蒲原宿としては、他にもすこし古そうな建物が点在するが、特に見るべきものはない。
浮世絵作家安藤広重の「東海道五十三次」のうち「蒲原夜の雪」が傑作と云われているそうで
あるが、温暖な蒲原で雪は降るのかという疑問もあるそうである。

蒲原宿を出たところで、左の山の斜面に巨大なパイプが3本下りてきている。右にある日本軽金属の
蒲原工場に富士の水を引いているらしい。

この辺りで旧東海道は左へ大きく曲がる。
この辺りは海が入りこんでいたのか、富士川の土砂が流れ込んでいたのか、
巨大に沼地だったそうで、旧東海道は大きく迂回していた。明治時代でもJR東海道線も
同様迂回している。
後年、沼が埋め立てれ大きい製紙工場が立っている。
新しい国道一号線が真っ直ぐ東へ伸びている。国道一号線にかかる橋が新富士川橋で
ある。私は今日は旧東海道を辿らず、国道一号線でショートカットすることにした。
言うなれば、三角形の二辺を旧東海道が辿り、国道一号線は三角形の底辺を突き切って
いるという感じである。
国道一号線の新富士川橋ができた当時は、歩道を歩く歩行者も1回100円通行料が
必要だったということである。
この新富士川橋まで行くのがすこしややこしい、2回ばかり人に聞いて、この橋にたどり着いた。


新富士川橋からみた富士山

さすが富士山である。
その雄姿、すばらしさにしばし
佇んだ。

今日は、天気も良くずっと富士と
二人連れであった。


新富士川橋は長い橋である。
1.5kmある。
この橋を渡る間、すれ違う人なし。
これだけ長い橋でも、実際水が流れて
いるのは20〜30メートルである。
それでも昔はこの川も度々氾濫して
付近の農民に多大の被害を与えた
そうである。勿論江戸時代は橋が
なく、船で渡ったそうである。

東京よりの距離を表す標識では
後150kmである。
今日と明日予定どおり歩けば
後100kmくらいまでになるはずである。
向こうの方に見える白い煙は製紙工場である。煙がほぼ真っ直ぐ上にあがっている。風がないせいである。
川原にはサッカー場が2面ある。それほど川原が広い。


新富士川橋を渡ってすぐのところに「道の駅富士」があった。そこでしばし休憩。
ここでお茶を飲み、チョコボール2個を食べる。

国道一号線横の歩道を歩くが、やがて歩道は無くなってしまう。これだから車優先の道は
困るのだ。国道一号線と分かれて田子の浦の埠頭地区を歩く。

やがてJR東海道線の吉原駅に出た。

吉原駅から見る富士山



大きく迂回していた旧東海道と合流する。やれやれである。
旧東海道は1本道である。
この辺りは、何々新田という名の地名がやたら多い。
大野新田、檜新田、田中新田、沼田新田、西柏原新田、中柏原新田、東柏原新田と続く。
遠州灘の海岸沿いに新たに造成された新田が続くわけである。
東柏原新田で道はやや内陸部へ入る。その辺りから海岸よりには千本松原になるので
そちらの方が歩きやすい、歩いても面白みがあるようだったが、とりあえず後4kmほどで
次の原宿なので、そこまでは旧東海道を歩くことにした。
旧東海道といっても県道何十号線やらで、車のよく通る道である。
1時50分沼津市の標識を通過したが、沼津の中心街までまだまだ後10kmはある。


江戸から数えて13番目にあった原宿に
入ったが、またここは何も無いところで
ある。本陣跡とか問屋場跡とか
その他の元宿場を表すものは
ひとつもない。こんなところも珍しい。
辛うじて、写真の表示を見つけたが、
これも地元の人が立てたものでは
ないだろう。どこの宿場でも見られる
共通の表示である。
元宿場ということを徹底的に抹消した
ところである。こういうところも初めて
である。静岡、浜松など大都会なら
別だが、この程度の規模の町で、宿場の面影、標識のないところもまったく珍しい。


こんなことなら、わざわざ原宿へくることもなかった。千本松原を歩けばよかったと思った。
JRの踏切を越したところで、旧東海道と別れて、千本松原を歩くことにした。
千本松原は沼津の千本公園から田子の浦へ続く、10km以上ある松原である。
砂防、防風のための松原であるが、中世からも知られており、美しい景観が和歌などにも
読まれている。戦国時代、武田勝頼が合戦に邪魔だとして伐採してしまったらしいが
その後また植林されたそうである。

今は浜との間に防潮堤が築かれているので、海岸は見えない。


松の林がえんえんと続く。
下が土なので、いいウオーキング道
だし、ジョギングにもいい。
ウオーキングの人、ジョギングの人、
犬の散歩の人など、たくさんの人に会う。
起点から3500メートルの標識がある。
起点というのは沼津市の千本公園で
ある。そこまで3.5kmこういう林が
続くということだ。道は真っ直ぐでは
ない。結構くねくねと曲がっている。


防潮堤に上がり、海を見る。



松林を歩いている内に、千本公園に着いた。ここから北へ向かい、沼津の中心街へ向かう。


途中、乗運寺というお寺に寄った。歌人の若山牧水の墓があるというので見に行った。
このお寺は立派なお寺なのか、格式があるのか、お墓の立派なのには驚いた。
若山牧水の墓など目じゃないのか、案内表示もないので、墓場の中をうろうろする。
ガイドブックの写真では牧水の墓は、墓石だけではなく、石で囲みもされているので、
囲みのある墓を探すがそういう囲みのある墓も結構沢山ある。
いや立派な墓が多いのには驚いた。
4時過ぎになって人気のない墓場でうろうろするのも気持ちが悪いが、辛抱して隅から隅まで
探したが見つからず諦めかけたら、犬の散歩の女性がきたので、尋ねた。
そうしたら牧水の墓は墓場ではなく、寺の入口の横にあると教えてくれた。
なるほど、山門を入ったすぐ右のあった。やはり牧水は別格らしい。


若山牧水といえば、石川啄木についで、よく知られた
歌人だと思う。だれでも牧水の歌の一つや二つは
知っている。
牧水は大正9年(1920年)から沼津に住み、
昭和3年(1928年)に43歳でここで亡くなったそうで
ある。
「酒は静かに飲むべかりけり」とかいう歌があるが
彼自身酒の飲み過ぎで死んでいる。
肝硬変だそうだが、酔死ということであろう。
牧水といえば、私はすぐ北原白秋と対比する。
両者とも同じ明治28年(1885年)九州の出身(牧水は
宮崎、白秋は福岡)、早稲田に学び親交があった。
白秋は長命とはいえないが、57才まで生きている。
少なくとも牧水のような破滅型ではない。
(高踏派というのかどうかはよく知らないが。


沼津の繁華街を通り越し、駅のすぐ北のホテルに4時35分に到着、7時間10分、30.7km。

左足のアキレス腱が痛いのが気がかりである。二日連続で歩いたとき二日目に出たことは
記憶にあるが、しばらく長距離を歩いていなかったせいか、一日目に痛くなったので
明日の箱根行きは大丈夫かとやや心配である。