平成13年11月24日
ホテル〜旧東海道〜江尻宿〜興津宿〜由比宿〜JR東海道線蒲原駅(27.9km)


静岡ビジネスホテル

(昨日の続き)
このホテルは古いせいか部屋は和室になっており
、風呂も大浴場である。私はビジネスホテルのバス
がどうも使いにくいせいもあり,このホテルは気に
入った。風呂の湯が溜まる間待つ必要がない。
4時40分にホテルにチェックインしてすぐ風呂へ行く
。10人くらい入れる大浴場に一人でゆっくり入って
から,部屋へ帰って大相撲を見ながら缶ビールを
飲む。ビールを飲んだ後,布団に入ってテレビを
見ていたら,そのまま寝てしまった。
気が付けば7時過ぎである。丁度テレビがスポーツ
ニュースで早慶ラグビー定期戦をやっていた。
早大圧勝に気分を良くして,街へ晩飯を食べに出る。暖かい夜であった。


今日の朝7時過ぎに起き、街をぶらぶらしばらく散歩した。朝食を食べ、支度をして,
8時半ホテルを出た。
旧東海道はすぐ近くを通っている。
ここ府中宿では昔の本陣とか脇本陣とか問屋場とかの宿場の跡を表すようなものは
一切残っていないようである。浜松もそうだったが,大きい都市になると特別のことがない
限りそういうものは残らないということであろう。


駿府(静岡)と徳川将軍家

駿府と将軍とは関係の深いところである。
東海道ウオーキングの先輩のW氏のホームページの府中宿のところでこのことに触れて
おられる。
歴代将軍の在位期間,在位年数、没年、年号の表がある。これを見てみるとなかなか
面白いことに気がつく。
歴代将軍で在位年数の最も短いのは15代の慶喜(10ヶ月)であるが,その次が初代の家康
(2年2ヶ月)である。また将軍が退位後没するまで最も長かったのもこの二人である。
(家康11年、慶喜に至っては34年も余生を送っている。
この二人が他の将軍に比べて圧倒的に長い)。

将軍の寿命を見てみると、またこの二人が圧倒的に長いのである、家康74才、慶喜76歳。

このように極めて共通点のある二人であるが,決定的な違いもある。
家康は幕府を開いた者だし、慶喜はその幕を引いた者である。
家康は,将軍は徳川家が独占する,天下は豊臣には渡さないことを天下に示すため、
将軍になってすぐ秀忠に譲り、自分は大御所となって生涯最高の権力者の地位を保った。
家康は権力をより強化し保持するため将軍を辞任したのに対して、慶喜は徳川の権力を
放棄するため将軍職を辞した。
将軍職を辞した後、両者は駿府に住むが、片方は生涯政治にかかわり最高の権力者で
あり続けたが,片方は写真、乗馬その他趣味の世界に生き、全く政治と無縁な生活を送った。
慶喜は最後の晩年数年は東京へ移ったらしいが,それまで30年近く静岡で暮らしたようで
ある。

因みに将軍在位で最も長いのは,11代の家斉の50年、その次が8代吉宗の29年,3番目が
家綱の28年である。この家綱というのは影の薄い将軍だと思う。家綱が何代目の将軍が知って
いる人は少ないのではないか。
家光と綱吉という個性の強い将軍に挟まれた4代目である。4代将軍は誰だったかと聞かれて
答えられる人は10人のうち何人いるだろうか。
この家綱が28年9ヶ月の将軍職に就いているのが意外であった。
家光の長男として生まれるが,生まれたとき家光はかなり年だった。
だから家綱はわずか11歳で将軍になったので在位年数も長かったと言うことである。
早く将軍になり聡明であったため,将軍になってすぐ政治に飽き、幕政は幕閣に任せきりに
なったらしい。
そのことから後日下馬将軍と言われた酒井忠清の独裁政治を生んだのではないかと思われる。


以上、余談が長すぎたが、旧東海道はJR東海道線,新幹線のため,何箇所かで分断される。
ガイドブックの地図を見ながら、旧東海道を辿って歩く。


静岡市街を出て、すぐのところで私くらいの年代の東海道ウオーカーに会い、しばし雑談。
私と同じガイドブックを持っておられる。昨日吉原から興津まで歩いたが夕方近くなり暗くなって
きた、静岡に親戚があるのでそこに泊まり、今日は興津まで戻って歩いてきたそうである。
今日は行ける所まで行きたいということである。今年の10月から東海道ウオーキングを始め、
年内には京都三条まで行きたいとのことであった。


草薙神社の大鳥居
草薙神社はここから1km余り南へ
行ったところにあるそうで,私は寄ら
なかった。


草薙神社は,日本武尊ゆかりの神社である。高校時代に古事記かでそのことを習った記憶が
ある。
日本武尊が東征の途中この地まで来た時,夷族に火を放たれ危地に陥るが持っていた剣で
草を薙ぎ払い難を逃れたという話であった。後日その剣を名古屋の熱田神宮に奉納したそうで
熱田神宮のご神宝になったということだったような記憶である。

また、火を放った場所が焼津という地名に残っているということである。
焼津と草薙とはちょっと距離があるな(15kmはあるのでは)という感じはする。

草薙を過ぎると間もなく、江尻宿である。
東海道府中宿が静岡のことだと知る人も多くないが、江尻宿が今の清水だと知る人は
更に少ないと思う。
江尻宿の南が清水湊である。清水の次郎長という侠客が有名だから、清水という地名は元から
あったに違いない。清水は明治、大正時代に貿易港として隆盛になり、大正末に江尻、清水他が
合併して市制を引くとき清水という名前になったが、収まらないのが江尻の町民、その市名に大反
対し税金不納や小学生の登校拒否とかを続けたとある。

稚児橋という橋を渡ると旧江尻宿の中心地である。
私がよく歩く東海自然歩道にも稚児橋という橋がある(東海自然歩道と旧国道248号の交点)ので、
この江尻の稚児橋の謂れに興味を持って案内板を見た。
それによれば、慶長12年この橋ができ江尻橋と名づけられたが、渡り初めの儀式で選ばれた老夫婦
が渡ろうとした直前、一人の稚児が現れさーと渡ってしまったという。これから稚児橋という名前に
なった。この稚児は巴川の河童だったということから、この橋を別名河童橋と云うそうである。



清水銀座商店街

和服の美人がいたから写真を
撮らせてもらった。



清水銀座真っ直ぐ行って突き当たりをこれから、旧東海道は北へ向かう。

これ以降蒲原あたりまで、山が海まで迫っているので、山と海の挟まれた狭い間を
国道一号線、JR東海道本線が走っている。
海よりにあるパイパス以外は国道一号線と旧東海道はオーバーラップする。


江尻宿のはずれにある蔵のある旧家
今日はこういう古い建物には殆ど
見かけなかった。



興津宿に入る。
興津には古い旧東海道を現すものはない。

興津で有名なのは清見寺というお寺である。


清見寺の山門
この向こうの高い所が境内

その間に東海道本線が走っている。
鉄道の架線が見えるはず。

門を潜って左の橋を渡って寺の
境内へ行く。

お寺が東海道線で分断されている形。
それだけ山と海の間が狭いということ。


境内

ここのベンチの座って小休止
お茶を飲み、チョコレートスティックを
2本食べる。これが今日の昼食である。

ベンチの前に、放浪の画家山下清の
詩が掲示されている。

それを紹介する。


山下 清
『清見寺スケッチの思い出』より

「清見寺という名だな このお寺は
古っぽしいけど上等に見えるな
お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのはどうゆうわけかな
お寺より汽車の方が大事なのでお寺の人はそんしたな
お寺から見える海は うめたて工事であんまりきれいじゃないな
お寺の人はよその人に自分のお寺がきれいと思われるのがいいか
自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな」

境内から見ると海は埋め立てられ、一号線パイパスが走り、今は風景は確かに良くないが
昔は見晴らしが良かったのであろう。
山下清の素直な感想はそのとおりという感じがした。


興津を過ぎるといよいよ「さった峠」である。
「さった」というのは、薩摩の「薩」に、土扁に「垂直」「垂水」の「垂」という字である。
この字が何故、表せないか。
「IMEパット」で3画の部首の土の部にこの字が確かにある。しかしこれを取り込むと
?になる。私は初め「Word2000」で「さった峠」を書いた時その字が取り込めたし、印刷も
できた。ところが「Outlook Express]でe−mailでこの字を表すと?になる。どうしてこうなるのか
わからなかったが、最近の「日経パソコン」の「お答えします」に同じような質問があり、その疑問は
解決した。
というのは、この字を表示できるためには「Unicode」という文字コードに対応したソフトである必要が
あるということである。多くのアプリケーション(「Outlook Express」「メモ帖」など)はシフトJISしか
対応していないので、この字が表現できないということである。
私が自分のホームページを作成するのに使っている「ホームページビルダー」もこの字が表現でき
ないのも同じ理由だと思われる。
(同じ「メモ帖」でも「WindowsXP/2000」のものは、「Unicode」に対応しているということである。
今後はそういうソフトが多くなるということである)。

さった峠の上りはきついかと思ったが、それほどのことでもない。
峠の見晴らしのいい場所にはたくさんの人がいて写真を撮っていた。


さった峠より見た富士山

今日は快晴で富士山が最高に見れた。
東海道を歩いてきた者へのなりよりの
ご褒美である。




ここから由比へはだらだらと長い下り坂である。途中たくさんの人にあったし、狭い車がやっと
1台通れる道を上ってくる車もある。
旧東海道ではない、ハイキングコースになっているのか、家族連れも多い。

私はアスファルトの下り坂を由比宿へ向かう。


由比の町並み
古い家が並んでいる。


由比の駅までが意外に遠かったが、駅に着いたときまだ早かったので、次の蒲原駅まで
歩くことにした。

由比の名産は桜えびである。桜えびの看板を出した店が並んでいる。

由比宿の中心はJRの由比駅より2kmくらい蒲原駅の寄ったところである。
駅がなぜこれだけ離れたところに作ったのか、その当時それなりの理由があったのであろう。
次の蒲原宿も蒲原駅よりまた大分東京寄りである。
由比宿は由比駅と蒲原駅の中間に位置する。


由比本陣公園
東海道広重美術館

由比本陣跡にできた大きい公園

土蔵跡に建てられた美術館には
1200点の版画が収集、展示されて
いるということである。

私は帰りを急ぐので入館せず。


この本陣公園の前にある正雪紺屋というのが由比正雪の生家ということである。
紺屋というのは「こうや」と読み、染物屋である。紺屋の白袴という例えの紺屋である。
この紺屋は江戸初期の創業で今でも営業中である。


蒲原駅着、3時5分、6時間35分、27.9km

蒲原駅から静岡、浜松、豊橋、金山、大曽根と電車を乗り継ぎ帰宅したのは
7時40分だった。

以上