平成13年11月23日
JR東海道本線藤枝駅〜旧東海道〜藤枝宿〜岡部宿〜丸子宿〜府中宿〜
静岡ビジネスホテル(26.7km)

10月27日の続きで旧東海道を歩いてきた。静岡県の中部となると効率から云っても
一泊泊まりの方がいいように思う。

朝7時に愛知県瀬戸市の家を出て,名鉄瀬戸線、名古屋市地下鉄、名古屋駅から
JR東海道本線豊橋行き快速、豊橋から浜松行き、浜松で熱海行きにそれぞれ
各停乗りつき、藤枝駅に着く。
10時35分歩き出す。今日は本当にいい天気だ。快晴である。
上のコートは電車の中で脱ぎ、上の長袖のシャツも歩き出しとすぐ脱ぎ、後はずーと
長袖のTシャツ一枚である。

駅を出て、北へ旧東海道を目指して歩く。

藤枝は旧東海道沿いの宿場のあったところ,旧市街と駅とはかなり,2kmくらい離れている。
明治になって汽車が走るようになったとき、国鉄側が最も直線距離となるところに駅を作った
のか,元の宿場町近くに駅ができるのを地元民が反対したのか、よく知らないが、とにかく大分
離れている。
これは前に通った磐田も同じことである。磐田の場合は藤枝よりその距離は長かった。
そして旧宿場の中心地は商店街としては見る影もないが,藤枝は駅前も旧宿場も商店街が
あり,そこそこ賑やかである。
ただし,旧宿場を表す本陣跡とか問屋場跡とか,そういうものは私が気が付かなかっただけかも知れなりが,一切なかったようである。

ただ商店街に,東海道藤枝宿
何々商店街という表示がある
だけである。





東へ,次の岡部宿へ向かって歩く。

藤枝宿,岡部宿は例のJR東海の「東海道ウオーキング」の対象区間となっていないから,
その種のウオーカーは見かけない。

道の反対側を向から歩いてきた人が私になにやら声をかけてきた。
東海道ウオーカーと雰囲気の違う人で,40歳くらいか。
私が近づくと「東海道を歩いとるんか」という。「そうです」というと「どこまでいくんや」と聞く。
「今日は藤枝から静岡まで行って、静岡で泊まって,明日は由比か蒲原行くつもりだ」
というと,「そうか,わしも今日は由比から歩いてきた。」ということで,この人の話に付き
合うことになった。東京から歩いてきたそうで、今日は9日目でだとか。会社が倒産して、
経営者が逃げてしまって,退職金はおろか給料も一円も貰えなかった。
大阪にいる友人に会うため,東海道を歩いている。何日もまともに食べていない。
残飯をあさって食っているが、悪いことはしていない。
時計を処分したが足元見られて2千円にしかならなかった。
寝るのは大概駅だが、夕べは静岡で寝たが寒くてたまらんので、歩き出した。
由比から歩き出して,さった峠を越すのが空腹の身にはえらかった。
などなど厳しい話を聞かされた。
前にももっと若い人だったがお金がないから東海道を歩いて移動している人がいたな。
東海道ウオーキングの人は、その日の生活に何の心配もない人がただ健康のため,
あるいはついでに名所旧跡の見物のため歩いている人が殆どだと思うが,一体何故これだけ
生活に差がある人が、同じように東海道を歩いているのだ。
今日は朝から暗然たる気持ちにさせられた。「元気出しなさいよ」と云って,千円札の一枚も
渡してあげればよかったような気もするが、その決断もできず,その人と別れて歩き出した。

岡部宿近くで,道路工事の人が道端に座ってコンビニで買ってきたのか,それぞれ違う弁当を
食べていた。先ほどの人も急がぬ旅であれば,こういう仕事を手伝わせて貰ってその日の食に
ありつき,お金をすこし貯めつつ大阪へ移動していけばいいのではないかと思った。
それは千円の金を惜しんだ私の自己弁護のようない気もするが。

岡部宿で向から来た人と雑談。静岡から島田まで歩くとのこと。そのとき12時半だったが,
その人は静岡を8時に出たそうだからここまで4時間半かかったという。その調子で行けば
私が静岡に着くのは5時ごろになるか、ちょっと遅いという感じもする。
しかし静岡〜島田も結構遠いですな,30キロ以上あるでしょうというとそうですねと静かに
微笑んでいた。話し言葉から三重訛りがあり,多分三重県の人だと思った。


岡部宿の柏屋。
元旅籠で今は資料館になっている。
先ほど会った失業者の人はお金が
ないならお金はいらないと言われた
そうだが,ここの入場券を持っていた
が300円と書いてあった。
私は勿論入館するつもりはない。
外から写真だけ写した。



岡部宿を出て再び国道一号線に合流したところに「道の駅」と名付けられたドライブインがある。
トイレがあり,24時間うどんそばが販売されている。簡単な食堂もある。10人あまりの家族連れ、
路線トラックの運転手などが,うどんやそばを食べていた。そのいい匂いに私も空腹感を覚えた。
家から持参したバナナ一本と駅で買ったチョコ棒を2本そこで食べ、お茶を飲んだ。
それが私の今日の昼食である。


そこから旧東海道は山へ入っていく。宇津ノ谷峠である。急峻な上りを予想していたが、
拍子抜けするくらいにあっけなく頂上に着いた。



宇津ノ谷峠




この道より山側に「蔦の細道」という道があり,今はハイキングロードになっているそうであるが,
近世この東海道が開けるまでは、この道がこの峠越えの道だったらしい。
旧東海道はいわば鞍部を越える道だが、「蔦の細道」はまともに山越のきつい道のようである。
この難所を歌に詠んだ在原業平は「駿河なる うつの山辺の うつつにも 夢にも人に 遭わぬなり
けり」という歌を「伊勢物語」に残している。それほど淋しい道だったのであろう。

宇津ノ谷峠を下りてきたところが宇津ノ谷集落である。



古い民家が軒を連ねる宇津ノ谷の里



この中の一軒に「お羽織屋」というの
がある。
豊臣秀吉の小田原征伐のとき,
秀吉が宇津ノ谷で休息し、この家の
主が馬の鞍かを献上しうまくもてなし
たので,秀吉が自分の陣羽織を脱ぎ
与えたそうで、また帰路にここへ寄り
約束どおり、伝馬役の免除などの
褒美を与えたとかの史実に基づき,
今でもその羽織を展示しているそう
である。
400年以上も前の羽織がよくも原型を
とどめているものだと思うが,私は中
へ入って現物はみていない。
甘酒とかかいてあるので,それくらいの商売をしているのかもしれない。





丸子宿へ入る前に少し寄り道になるが,誓願寺というお寺に行ってみた。
私がウオーキングの途中でお寺や神社に入ることは滅多にないし、いわんや道から
500メートルくらい外れているところへ寄ることはまずありえないが、このお寺には
片桐且元の墓があると聞いていたので、それを見るためである。





誓願寺




人っ子一人いないお寺の中で,
「片桐且元公の墓所」という小さな
案内に従って,墓場の奥へ進む。

隅の方に片桐且元夫妻の墓があった
。この案内板がなければ絶対分から
ないであろうと思われる
質素な墓である。



片桐且元の墓が何故こんなところにあるのか。
寺の山門横の案内板によれば,関ケ原の合戦後,徳川と豊臣の対立が深まった中で,京都の
方広寺の梵鐘事件が起こり,且元が駿府城の家康に弁明するためにこの地に来て,このお寺に
滞留していたらしい。この梵鐘騒動が一つのきっかけになり「大坂冬の陣」続いて「大坂夏の陣」が
おこり,豊臣は滅亡してしまう。且元は徳川方につくが,夏の陣の直後没し,その子孫が後日
且元夫妻の墓をここへ作ったということである。

しかしそれにしても何故この地に墓を作る必要があったのか,理解できない。
且元は京都で病没したと云われるし、領地がこっちの方にあったとも思えない。
しかも家康のいた駿府城とは目と鼻の先である。5〜6kmくらいの距離である。
その墓の建立が家康の存命中なのか,死後なのかは知らないが,合点が行きにくい話である。

インターネットで且元について,少し調べてみると,「且元は元々父の代から浅井長政に仕えて
いたらしい。浅井の没落後、秀吉に仕え,賤ヶ岳の戦で「七本槍」の一人として武名をあげ、
3千石を与えられる。秀吉の死後、守り役として秀頼の補佐役となり、関ヶ原の戦いの後、
家康の推挙により豊臣家の家老になる。」とあるが、同じ「七本槍」の加藤清正、福島正則らが
20万石を超える大大名であるのに比べると全く優遇されていなかったといえる。
また、「関が原以後、家康の命により、秀頼補佐を務め、豊臣氏の所領、財政、ともに預かった。
慶長19年(1614)、方広寺、大仏供養の鐘銘事件で、駿府の家康のもとに出向き弁明したが、
不首尾に終わり、返って大坂方から家康内通を疑われたため、身の危険を感じ、大坂城退去に
及ぶ。のち事実上、家康麾下に入る。
元和元年(1615)大坂冬の陣では、家康に従ってともに大阪城を攻め、一時和睦がなると、
再び豊臣と徳川の調停に尽力するも、再度、夏の陣が勃発した折には病床に臥していたと言う。」

家康に恩義も感じていたかもしれないが、関ケ原の後完全に徳川の天下となり、その中で豊臣家の
存続を心から願い,生き残る道を探り,豊臣家に進言したが入れられず、かえって徳川に内通して
いる者として退けられたということであろう。

且元がこのお寺に滞在していたが、結局家康に会えず、この寺で家康の側近の金地院崇伝、
本多正純から詰問され、豊臣家の国替えが和議の条件と提示される。
一方遅れて淀気から送られてきた使者が聞いてきた話と食い違っていた(それが家康の謀略で
多分豊臣家にとって甘い条件になっていたのであろう)ことから、且元は豊臣家の不審を買い、
それが且元失脚の原因となったということである。その後は上記のとおり大坂城を出て、弟のいた
茨木城へ移ったとも書いてある。。

いずれにしても,豊臣と徳川の中で翻弄される中で,主家の存続を願って苦労した且元の誠意を
信じ、その労に敬意を表するため,この寺を訪れたものである。
インターネットの記事の中にはでは「同年(元和元年)5月28日、大坂落城を聞くと、駿府において
自刃。60歳。」と書いてあるのもあるが,駿府にいたというのは信頼しがたいが、豊臣滅亡を見定め
、死を選んだというのはありうるかもしれない。
それにしても、京都か大坂か関西で没したとすれば、何故且元夫妻の墓をここへ建立したのか、
やはり疑問を感じる。


また,旧東海道に戻り、丸子宿へむかう。
後は,丸子宿までそんなに遠くない。

丸子は「まるこ」ではなく「まりこ」と読む。丸子ではなんと言っても「丁字屋」というととろ汁屋が
有名だが,そこには「鞠子宿」という石の碑が立っていた。だから昔は鞠子の方が一般的だった
のではないかという気もする。



丁字屋




丁字屋の前に,有名な芭蕉の句碑がある。

「梅 若菜 丸子の宿の とろろ汁   芭蕉」

何故,梅や若菜が出てくるのか、この芭蕉の句については,東海道ウオーキングの先輩のW氏の
ホームページに興味深い解説がある。それを殆どそのまま引用させていただく。

「この句は,大津にあった乙州の新居で作られた。(乙州というのは芭蕉の門人?)
芭蕉は,しばらくこのお屋敷に寄寓していた。
元禄4年(1691)早春,まだ若い乙州が,初めて東海道を下ることになり,送別会を催した。
旅慣れた芭蕉のことだから,ずっと街道の名物を思い浮かべている内に,ふっとこの丸子宿の
名物を紹介する句が生まれたと言われる。」

これに対して乙州は
「笠あたらしき 春のあけぼの   乙州」と答えたという。

何故、梅、若菜が出てくるのかについて,W氏は
「「梅,若菜」で,今度は源氏物語が思い出されたのだ。
源氏物語54帖は,32梅枝(うめがえ),33藤裏葉(ふじうらば),34若菜上,35若菜下と続く。
この若菜の帖で,柏木が蹴鞠をしていて,偶然御簾の間から女三宮を垣間見てしまう後半の
クライマックスが書かれている。
芭蕉は,源氏物語を念頭に置いて,梅,若菜から毬を連想したのだろう。」と云われる。

丸子はなんども言うが,「まるこ」ではない,「まりこ」である。
「梅、若菜から鞠ときて,「まりこ」宿のとろろ汁」となった。
これに対して乙州が引用したのは,言うまでもなく「枕草子」である。
「春はあけぼの,ようよう白くなりゆく山際」と続く。
「とろろ汁とこのフレーズに続く「白」とをうまく掛け合わしてあり、しかも方や,紫式部「源氏物語」,
方,清少納言「枕草子」と,日本文学史上女流文学の双璧を巧みに配し,見事な連句である」
という氏のご指摘であり、蓋し正解だろうと思われる。
もう一度引用してW氏のするどき指摘に敬意を表したい。

「梅 若菜 丸子の宿の とろろ汁
 笠あたらしき 春のあけぼの  」


丸子宿までくれば,静岡はもうすぐである。
車のよく通る道をたんたんと歩いて約3kmで安倍川に出た。
ここも江戸時代は橋がなかったところである。


安倍川橋




河原は広く、小学生がサッカーの試合をしていた。
ちゃんとユニフォームを着て旗を持った審判もいる。サッカーが盛んな静岡県らしいと思った。


安倍川橋は1kmはないがそれでも7〜800メートルはある長い橋である。自転車に乗っている人
にはすれ違うが,歩いている人はいない。
橋を渡ったところに安倍川餅を売っている店が数軒有り,車を止めて買っている人もいる。


この店の裏手にある公園に由比正雪の墓があるということだが、わざわざ寄る気はなかった。
由比正雪は明日行く由比の出身だが、一味の幕府転覆計画が露見した時,彼らは駿府にいて
捕縛される直前に一味全員が自刃したとのことで,その関係でこの地に墓があるのであろう。

安倍川を越えるといよいよ静岡市街である。

気分的に軽やかに一本道をどんどん歩く。

静岡の繁華街を通り過ぎ、今日の宿泊の静岡ビジネスホテルに着く。
4時40分,6時間10分,26.7kmだった。

以上