今日は、写真はありません。

平成13年10月21日

自宅〜海上の森〜東海自然歩道〜雲興寺〜岩屋堂〜品野本町
〜五位塚バス停(20.3km)

今日は、予定していたことが意外に早く済んで、時間が出来たので、久しぶりに
東海自然歩道を歩いてきた。
それも自宅から歩いていける、いつものコースである。

8時に家を出て、ゆっくり歩き出す。

海上の森の入口の手前の車がよく置いてあるところの20〜30台の車が止まって
いて、数十人の人が集まっている。
道に車を止めている人に何があるのかと聞くと、自然保護だとか環境保護の集まりだとか
尊大に云っていた。環境保護とか自然保護とかいうのなら、こんな大型車(3ナンバー)の
車で来るなといいたい。いずれにしても、こういう輩は私は大嫌いである。

その駐車場に「尾張瀬戸海上の森 武田信玄古城跡というのぼりが何本も出ていた。
これは私ははじめて見た。海上部落の人でそういうことを真剣に考えている人がいるとか
聞いたことがあるが、その人が出しているのだろう。(まさか瀬戸市役所が
出しているわけではあるまい)。
しかし、武田信玄がこの尾張の北部まで勢力を延ばしていたとも思えないが。

海上の森の入口で、サイクリングの二人連れに会う。良さそうなマウンテンバイクに
乗っているので、その値段を聞いてみた。これから物見山や登るそうであるが、初めてと
いうことだが、案内標識もないのにうまく行けるのか、心配だった。

海上の森に差し掛かった時、向こうからマウンテンバイクに乗った人がやってきた。
物見山に行って帰ってきたのかもしれない。
そういえばこの辺りはマウンテンバイク愛好家にはいい場所かもしれない。
名古屋の人はここまで来るのが大変だと思うが。よく車の屋根に自転車を積んで
ここへ来ている人もみかける。

私は毎日通勤で自転車に乗り、それも帰りは坂道をふうふう汗を出して
自転車を漕いで上ってくるので、休みの日までしんどい思いをして自転車に
乗りたくはない。

海上の森、大正池周辺、特に記すべきこともなし。

やがて、以前と同様、この道行き止まりの標識あり。
あの、一年前の豪雨で損壊陥没した道をまだ修理していないらしい。
その現場にきたが、やはりこの前のままである。
予算の無いことを理由にして、この道の陥没を直さないのでないかと
勘ぐられる。これだけひどくなっていると、歩くのはすこし迂回すればいいし、
自転車も少し担げば通れるが、自動車は勿論、バイクも通行は無理である。
車、バイク、自転車を奥へ入れないため、わざとこのままにしておくのでは
ないかと思ってしまう。

猿投山登山口へ着いたが、今日は猿投山へ登らず、そのまま東海自然歩道を
雲興寺へ向かうことにした。

今日はずーとNHKラジオを聞いていた。日曜討論もそこそこ興味があったし、
日曜歌の散歩も相変わらず、退屈しないで聞いておれる。
今日、聞いたリクエスト曲のうちで、珍しい歌と思ったのは、野球評論家の
豊田泰光の「男のいる町」とかいう歌である。豊田が西鉄ライオンズか産経スワローズ
かでの現役の時に吹き込んだ歌だと思うから、35年〜40年くらい前の歌ではないかと思う。
作詞は名前は忘れたが、大作詞家だったし、作曲は吉田正である。
アマチュア向きの分りやすい歌だし、歌いやすく作ってあると思った。

なんでわざわざこんなことを書くかというと、一時期レコード会社の政策に、映画俳優は
申すに及ばす、野球選手でも誰でも、ちょっといい声してる者にレコードを出させたことが
あった。豊田もそのひとりだろう。

もう20年以上も前になるか、将棋プロ(九段)の内藤国雄さんの講演を聞いたことが
あったが、それがなかなか面白かったのを、豊田の歌から思い出したのでそのことを
すこし書いておく。
内藤九段は今でも将棋まつりなどでは必ずと言っていいほど、マイクを取って
歌を歌うが、うまいし、声もいい。これが20年以上前だから、素人離れがして
歌は上手いし、高音のいい声だった。このことを聞きつけたレコード会社が
レコードを出しませんかと持ち掛けてきたらしい。本人がその気になると、しばらくして
それではこの中から選んでくれといって、歌詞を何曲分か送ってきた。
内藤九段は、関西の将棋王坂田三吉の孫弟子になるが、そのせいか、
村田英雄の「王将」を思わせるような歌詞、王将やら闘魂とか、そんな歌詞ばっかり
だったが、その中に将棋と全く関係ない普通の歌詞で、気に入った歌詞が
一つだけあった。
普通、歌謡曲の歌詞というと3番まで、長くても4番までだが、レコードを作る前の段階
では、4番どころか、延々と歌詞が10番くらいまで書いてあるそうである。
そこから、適当に詰めていくらしい。

それで、これがいいとレコード会社に連絡すると、その歌詞に合わせて作曲した
ものを送ってきた。
それも一つではなく、二つである。彼の高音を生かし、高音で始まるものと、
低音からじわーと高くなっていくものと二つである。どちらになるか、分らないから
二つとも歌えるように練習しておいてくれと言われたそうで、ごっちゃになりながら
一生懸命練習したらしい。そのどちらにするか、最後まで決まらず、吹き込み当日に
なった。普通レコードの吹き込みは一日仕事らしいが、彼の場合割合早く済んだそうで、
結局、高音から始まる方の曲になったらしい。

こうして、将棋のプロ棋士が吹き込んだ歌が、やがて爆発的にヒットした。

それが1976年(昭和51年)5月発売の、「おゆき」という歌である。

「持って生まれた運命(さだめ)さえ、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あれは・・おゆきという女」
という歌で、ある程度の年令の方はご存知だろうと思う。今でもカラオケの定番である。
日本の演歌の原点ではないかと私は今でも思っている曲である。
当然、テレビにも出演していたし、当時私の妻なんか内藤九段を見て
「こんな年の人が最近デビューしたんやろうか」と不思議がっていたのを思い出す。
この歌がヒットしたことにより、将棋の方は1年間休業して、歌に専念してあちこち
全国を巡業したらしい。
地方の遊園地で平日、野外ステージで、歌っていたときなんか、観客を数えるくらい
しかいなかったが、急に雨が降ってきたので、傘を差して歌おうとしたら、マネージャに
「何をする」とえらい怒られたとか、いろいろ裏話をしてもらったが、それは割愛する。

その後の話が重要だと思う。
1年将棋を休業して、再び将棋に戻ったとき、彼はどうなったか。
普通に考えれば、プロが現場を離れ、その間全然将棋を指していないとすれば
調子を取り戻すのに、数年掛ると思われるのだが、彼はそうではなかった。
復帰後、彼は棋聖だったか、なにか将棋のタイトルをすぐ取ったそうである。
1年間、将棋を休み、歌のプロとしてどさ回りをしていたいたことが、将棋にマイナスと
ならず、プラスになった。めったにできないいい経験をさせてもらった。人間として
一回り大きく成長させてもらった。それが将棋に大いに役立った。
今日私があるのは、あの1年間の苦労のお陰であると云っても過言でないと
述懐されていたのが、大変印象に残った。

内藤九段は今でも現役の棋士として活躍しておられるが、詰将棋の作者としても
有名である。数年前究極の詰将棋、完全詰将棋とでもいうべき、全ての駒が
盤面に並びながら、詰将棋になっている作品を発表されている。


そんなことを思い出しているうちに、雲興寺に着いた。
数人の人影を見たのみ。
すぐ、岩屋堂へ向かった。
途中、通行止めの標識があるが、無視して進む。
全く人影なし。たんたんと歩くのみ。
急な階段を上り、これから下る一方というところに休憩所あり。
そこで持参のバナナを一本食べ、お茶を飲む。

岩屋堂の橋の上で三脚を構え、写真を撮っている人(70才前後)がいたので
今日はと大きい声を出して、話し掛ける。カメラの話をしばし聞いた。
大府から来たそうで、瀬戸市美術展に出品した写真の搬出が今日の午後
4時半だそうで、それまでの時間つぶしに写真を撮っているとか。
いろいろ話を聞いたが、割愛する。

品野本町まできたら、バスが出たとこなので、バスの通る国道をすたすた
歩けるところまで歩こうと思って歩き出す。
雨がぱらぱら降ってきた。
五位塚停留所着、1時5分、20.3km。

瀬戸のユニーで、うどんを食べ、文化センターへ寄って、「瀬戸市美術展」の
写真だけ見てきた。
さすが、ここに出すだけあって、なかなかの作品ぞろいだと思った。

2時頃帰宅、今日の歩数33000歩。

デジカメで写真を撮ってきたが、読み込みがうまくいかず、今日は写真が
ありません。

以上