平成13年9月22日
奈良県橿原市今井町、JR桜井線巻向駅〜箸墓〜山辺の道〜天理駅(18.2km)

9月23日に大阪で所用があり、その前日かねてから念願の今井町の重伝建地区と箸墓古墳を
見に行ってきた。その他は付録である。山辺の道をハイキングするつもりは更々なかったが
箸墓を見て大阪へ出るコースとして歩いたに過ぎない。山辺の道は、こんな道でもこの辺りでは
それなりにハイキングコースとして人が集められるのかという印象であった。ただ歩いただけであった。
このところ雑用で多忙でHPの更新ができず、2週間も経つと大分忘れてしまった。うろ覚えで
散発的な印象で書いておく。

8時半名古屋発の近鉄特急で大和八木に着いたのが10時20分頃だと思う。橿原行きの電車の
乗り換え時間が余りなかったと心配していたが、八木で降りる人が多く、また乗り換えのホームが
よく分からなかったこともあって、予定の乗り換え電車に乗り遅れた。20分余り待って乗った電車が
動き出したと思ったら、もう次の駅八木西口である。こんな近い駅なら、歩いたほうが良かったと
思ったが後の祭りである。けちが二つもついて、今日は出始めに嫌な予感がした。
駅で今井町の案内パンフレットをもらって歩き出す。


 「 今井町は奈良県橿原市に含まれるが、訪ねると市内の他の部分とは異質なものと直ぐに気が
付くはずだ。それもそのはずこの町は堺などとともに、日本の町としては珍しい自治都市として、発展
してきた経緯があるからだ。
 戦国時代の天文年間(1532〜1555)、一向宗(浄土真宗)本願寺の家衆今井兵部によって、称念
寺の前身である道場が建てられた。一向宗徒が集まり寺域の周囲に環濠を巡らし、町筋はおおよ
そ碁盤目状であるが、各所に突き当たりや食い違いをつけて遠見を防ぎ、弓矢、鉄砲の射通しを不
可能にし外敵の進入を防ぐ町割をした。
 また独自の軍隊を組織して町の防衛にあたり、絶大な軍事力をもった今井寺内町ができあがった
。元亀元年(1570)になると織田信長と本願寺との間に戦いが起こり、今井も矢倉を築き、濠を深くし
て合戦に備えたが、天正3年(1575)に今井は明智光秀を通じて、信長に降伏したが何の咎めもなく
、権力の介入を招くことはなかった。
 秀吉の時代になると今井は優遇され、大坂や堺との交流も多くなり商業都市へと変貌していく。こ
の頃の今井は1200から1300戸4000人を数えた財力豊な町であった。五代将軍徳川綱吉の延
宝年間(1673〜1679)の頃になると幕府の体制も整い、もはや治外法権的な寺内町の存在(特権
)は許されなくなり、兵部は釈門に帰り今井の町は天領となって、惣年寄制が敷かれた。
 惣年寄には今西氏、尾崎氏、上田氏の三家が、六町の町年寄を支配して町を治めた。惣年寄に
は死罪を除く司法権、警察権が与えられた。
 今井の町はこうして寺内町の特権こそなくなったが、商業都市として益々隆盛をきわめ、元禄期(
1688〜1704)には最後の繁栄期を迎え「大和の金は今井に七分」と言われるほどになった。この
町には大商人がひしめき、大名貸、蔵元、掛屋、両替商の他米、酒、味噌、油、肥料や嫁入道具一
式までもが売られ、今井札は全国に通用するほどの高い信用度をもっていた。
 

しかし、今井町の繁栄もこの頃までで、やがて衰退の一途をたどり明治維新を迎える。諸大名がつ
ぶれ、武士が俸禄をはなれたため、その貸金が無効となり今井町は大打撃を被った。
 現在も今井町環濠内の民家約750棟のうち、伝統的様式を残す建物が、今西家をはじめとして、
約500棟あり、その中に国の重要文化財八棟、県文化財二棟、市文化財四棟が含まれ、いまなお
町全体が戦国時代にできた寺内町の歴史の重さを感じさせている。それも単に保存されているだけ
でなく、今も住民が生活している生きた町であり、他に例を見ない貴重な文化遺産である。」

上記は今井町の説明のため、「日本町並みリンク」に出ている先輩のレポートをそのまま、
引用させて頂いたものである。

大和地方によくある、環濠集落の一種として濠に囲まれた特別地域という感じが今でも
よく残っている。ここにはマンションもなければ工場もない、高い建物もない、そしてなお現代的生活
をしている人々が生きている地域である。
富田林市の寺内町とどうしても比較してしまうが、よく似ている歴史を持っているし、今に残る姿も
よく似ている。富田林の方が全体は小さいが古い町並みは集中しているように思った。

次の予定のためのJRの電車は12時15分畝傍駅発なので、それまでの1時間余りの間、足早に
東西南北十字の道を廻って、片っ端から写真を撮ってきたせいか、印象は散漫で今ひとつという
感じである。


今井町の中心街、
重要文化財の米谷家だったと思う。
米谷家は一般公開されているので
中へ入れるが見学せず。



重要文化財 今西家
元々今井町の惣年寄の筆頭でここでも
最も権威のあった家だそうで、この建物も
この地域でも一番立派であった。


今井町中心の町並み


ざーと町を見て、12時ごろ今井町を離れ、JR桜井線の畝傍駅に向かう。


畝傍駅近くに古い銀行の建物があったので
写真を撮る。
和歌山銀行畝傍支店とあった。
今でも営業中らしい。


JRで四つ目の駅巻向で降りた。
箸墓古墳を見に行く。


箸墓古墳全景
この古墳の北側は大きな池に囲まれている。
西側に管理人用の建物(無人)、拝殿所が
ある。
大市墓 宮内庁という表示があった。
天皇家の陵墓指定で勿論立ち入り禁止
である。


この箸墓の南側東側はすぐ民家に接しており
このようにアスファルト舗装の道に囲まれて
いる。
近くでは森としか見えないので
全体像は見えない。

箸墓の主は、倭迹迹日百襲姫(やまと・ととひ・ももそ・ひめ)である。この姫は日本書紀によれば
神武から数えて7代目の孝霊天皇の皇女であるそうである。
また、この姫は岡山の岡山神社の祭神となっているとのことであり、また毎日新聞の記事
「箸墓古墳は1998年9月の台風7号の強風で、多数の樹木が倒れた。倒木を伐採する際、木の根元
 から多くの土器片などが出土、採取された。宮内庁書陵部の調査によると、土器や埴輪などは
 主に前方部と後円部から出土。後円部からの土器には、「特殊器台」という吉備地方の墳墓に
 特徴の大型のものが含まれていた。「特殊器台」は弥生時代後期に吉備地方で出現、古墳時代
 になって円筒埴輪に変化したとされる。
 今回確認されたのは、最古形式の埴輪になる直前の土器の破片で、吉備地方の弥生時代終末期
 にみられる墳墓などでも見つかっている。このため、箸墓古墳の被葬者と吉備地方の勢力に深
 いつながりが推測される。」
から、この姫と吉備との関連が注目される。

ところで、わざわざこの古墳を見に行ったのは、三ヶ月くらい前に読んだ本
倉橋秀夫著「卑弥呼の謎 年輪の証言」が非常に面白かったからである。
この本によれば、最近の「年輪年代法」によって、絶対年代が判別できるようになったことから
日本古代史の解明に画期的なことがおこっているということである。
大雑把に言えば、池上曽根遺跡(大阪府和泉市、泉大津市)から出土した檜柱を年輪年代法で
鑑定した結果、この柱の伐採はBC52年と分ったというもので、これは従来考えられていた年代より
約100年古いという。これらから近畿地方の文化は従来考えられていたよりも、もっと早く発達して
いた。九州が先に発達してその勢力が東遷したのでなく、九州と近畿は同時進行で発達していたの
ではないかという。近畿の弥生中期は約100年古くなることにより、古墳時代も3世紀後半ではなく
50年くらい早くなり3世紀中ごろに始まったのでないか。そうすれば卑弥呼が死んだ西暦248年は
古墳時代の幕開けではないか。箸墓は昔から卑弥呼の墓という伝説が大昔からあるが、その
可能性が一段と高まった。従って邪馬台国は大和地方になる。
この本にも紹介されているが、ある古代史学者は「もし箸墓が卑弥呼の墓でなかったとしたら、
一体誰の墓なのか、それが最大の悩みです」ということを述べているが、そのとおりであろう。
箸墓は全長280m、後円部径155m、前方部125mの巨大古墳である。それまでの100m級の
墳墓と呼ばれるものと決定的に違う巨大型前方後円墳の記念すべき第一号である。
こんな決定的な古墳が100人の日本人が100人知らない倭迹迹日百襲姫という無名の人物の墓で
あるはずがないというのが素人の率直な感想である。(勿論その姫が卑弥呼と同一人物かもしれな
いが)

箸墓が卑弥呼の墓であるという点の難点の一つがここから出土した土器の年代である。
この箸墓の渡り堤や外堤の盛り土から出土した土器で最も新しいものは布留0式と呼ばれるもので
この土器の年代は3世紀後半とされることだそうであるが、この本で紹介されているが土器の編年も
従来の考え方を大きく見直すことをもう随分前から提案している土器の専門家の学者もいるそうで
どちらにしても「年輪年代法」による絶対年代を確定する事実のインパクトは大きいと思う。

この本の出版後の平成13年1月か3月にかけて実施された、巻向勝山古墳の調査から出土した
板材を年輪年代法で鑑定した結果、最も新しく見ても西暦210年と推定されるということだ。
この勝山古墳は墳丘長110mで、場所的に勿論箸墓に近い。

5月末の各新聞でこの発表を取り上げ、例えば

「読売新聞(平成13年5月31日掲載)
邪馬台国は古墳時代!ヤマト政権説強まる

◎奈良勝山古墳 築造最古3世紀初め
 奈良県桜井市東田(ひがいだ)の勝山古墳から出土したヒノキ材を年輪年代測定で調べた結果、
同古墳か三世紀初めに築かれた、わが国最古の古墳であることがわかったと、県立橿原考古学研
究所が三十日、発表した。古墳出現が半世紀近くさかのぼって中国の史書「魏志倭人伝」に登場す
る女王・卑弥呼の時代と重なることから、弥生時代と考えられてきた邪馬台国の時代(二世紀末〜
三世紀後半)がすでに古填時代だったことを示すなど、古代の年代観を変える画期的な成果となっ
た。邪馬台国は初期ヤマト政権だった可能性が高まり、畿内説に弾みをつけそうだ。」
「石野博信・徳島文理大教授(考古学)は「三世紀初めに古墳があったことがはっきりした。古墳は
卑弥呼の登場とともに出現し、それが古墳時代の始まりとなった」と断言。白石太一郎・国立歴史民
俗博物館教授(考古学)は被葬者について「卑弥呼を支えた有力者の墓で、卑弥呼が存命中に造
られた。父親かも知れない」と推測している」
という記事が出ている。

しかし、これに対して土器編年との整合性を指摘して疑問を呈する新聞もあった。しかしこれは
土器編年の方を再検討すべきと意見もあることだし、私はむしろ、この墓と吉備地方との関連の
方が気になる。箸墓伝説(姫が箸で自分自身の身体を突いて死んだ)は、この主人公が土着の
者ではなく外来者であることを暗示するということを何かの本で読んだことがあるが、吉備関連の
土器の出土がこの被葬者が吉備の出身者ということであれば、それと卑弥呼とどう繋がるのか
気になるところである。

そういうことを念頭においていて、この古墳の実物を見たかったのであるが、近くで見れば
近すぎてその全容は分らない。前方後円墳といわれても確認のしようがないという感じである。
それにこの古墳が天皇陵でないためか、きちんと保存されているわけではない、端の部分は
削り取られているようであるし、民家と接している。考え方によっては、よくこの古墳が歴史の
荒波の中でよく残ったものである。

箸墓古墳を見た後は時間があるし適当に天理まで歩くことにして、国道を歩いても良かったが
折角「山辺の道」という歩行者用の道があるからそれを歩いた。


山辺の道から見た景行天皇陵(12代)

この北1kmのところに崇神天皇陵(10代)が
ある。江戸時代の伝説ではこの二つの天皇
陵は逆だったという。崇神天皇は「ハツクニシ
ラススメラミコト」と称されており、実在した天皇
の初代天皇とも言われているから、南から
箸墓(卑弥呼)、崇神天皇、景行天皇と並ぶ方
がなんとはなく理屈は合う。


私が東海自然歩道あるいは旧東海道を歩いていて、すれ違えば大概「今日は」と挨拶するし
相手の方も挨拶するのが普通である。100%そうである。
しかし、この山辺の道は都会の道と同じらしい。まあ百人以上の人とは会ったが、挨拶をする人も
なく、こっちがしても不思議に思われるだけのような雰囲気であった。
ところが、石上神社に近づいた時、向こうからきた夫婦連れが始めて向こうから「今日は」と
挨拶された。聞くと奈良から桜井まで歩くそうである。「20kmくらいありますか」と聞くと
「いやー40kmくらいあるでしょう」とのこと。40kmあるかどうかは分らないが、こういう風に
歩くつもりで歩いている人は、途中であった人にちゃんと挨拶するのが普通になっているので
あろう。


石上神社にて

この境内で舞台のようなものを作りかけていた
が、布留薪能と書いてあった。布留という字が
箸墓の土器の布留ゼロ式と関係があるのか
どうか知らないが偶然この字をまた見かけ
因縁のようなものを感じた。


この神社の境内で自転車に乗って遊んでいた小学生二人連れに天理駅までの道を聞いた。
僕についてきてくださいと云って案内してくれたのはあり難いが、いくら子供でも自転車に
ついて行くのは楽ではない。こちらは早足で一生懸命ついて行く。

天理大学など天理教関連の施設の前を通り抜けていく。立派な施設が沢山あるものだ。


天理教本部前

ここから商店街を通って駅まで一本道である。


天理駅着の時間はうろ覚えだが確か3時40分頃だったと思う。

以上、あまり皆さんには関係ない話題で失礼しました。