平成13年9月8日
JR東海道本線天竜川駅〜旧東海道〜見付宿〜袋井宿〜掛川駅(26.8km)

今日は先週の続きで旧東海道を歩いてきた。
金曜日は雨で土曜日の天気も心配だったが,幸い天気となった。
名古屋駅から東海道線の快速豊橋行きに乗り、その後浜松行き、熱海行きの普通に
乗り継ぎ、先週のゴールのの天竜川駅に着き、9時50分歩き出す。
電車の中で日焼け止めクリームを腕、首筋に塗りたくる。
今までは半ズボンだったが、今日からは長ズボンである。
駅から数百メートル歩き、旧東海道に出て、淡々と歩く。
ラジオを聞きながら歩く。この辺りでも名古屋のNHKがなんとか聞こえる。

松並木が部分的に残っているのが、旧東海道の名残である。

歩き出して30分ほど、天竜川の少し手前で「金原明善生家」と「金原明善記念館」と
いうのがあった。金原明善は明治の人で「あばれ天竜」といわれてしばしば洪水を
起こした天竜川の治水、堤防工事に私財を提供し、功労のあった人らしい。



生家は明治時代の建物かで相当古いものの
ようである。




天竜川に差し掛かり、天竜川橋を渡る。


驚いたことに、この長い橋(1kmくらいはある)
には車の通る道と人道が分かれていない。
50センチほどのところに白線が引いてあるだ
けである。夜だとこんなところは危なくて
歩けない。



川上100メートルのところに新天竜川橋という新しい橋があり、そちらは国道一号線が
渡っているのか、車の往来は激しいようだが、そちらは歩行者用の道が区分されている
のだろうか。それならそれでこちらの方は歩行者を通さないようにするべきだろう。
しかし、見たところ、歩行者も自転車も通っていないようだし、こちらの道は向こうから
自転車のおばさんが来たから、やはり歩行者、自転車はこちらを通るようになっている
のかとも思うが、どちらにしても危険極まりない話である。
江戸時代はここも橋がなかったので、もうすこし川上で船で渡ったとのことである。
明治天皇の東幸の時は船橋を作ったが、その後撤去されたので、木の橋が架けられた
そうである。

この長い橋を気をつけながら渡った。

橋を渡り、また国道と別れて旧道に入る。

]磐田へ向って一本道である。歩くだけである。
旧東海道はここで大きく東南方向へ向かい、磐田駅前で90度曲がって北へ向い、そこから
約2kmで見付宿である。見付宿へ行くだけなら国道を歩いた方がはるかに近道で
ある。3kmくらいはショートカットできるので、ちょっと色気も出たが、ここは
本来の旧東海道を辿ることにした。
分っている限り旧東海道を歩くという方針と磐田の駅前の商店街を見たかったためで
ある。


磐田駅前商店街のアーケード




サッカーの「ジュビロ磐田」の本拠地らしく、そのポスターを各店に貼ってあった。
磐田駅前から約2km北へ行ったところが旧見付宿である。
磐田市の中心街からはかなり離れている。
東海道本線が見付宿から離れた所に開通したためこの宿は一度に衰退してしまった
のではないかと思う。
最近になってこそ、昔の旧東海道が見直され、ウオーキングブームや旧東海道400年祭
などで注目されているということであろう。

見付宿に入る。
とは云っても昔の宿場の面影らしいものは一切ない。




一歩裏へ入って見ると、古そうな土蔵があった。これが昔の宿場町の名残である。




旧見付学校

これが、見付の唯一といっていい観光ポイン
トである。
明治8年落成、昭和44年国史跡に指定され
た、日本最古の現存する木造小学校である。
中も公開されているが、入らなかった。
外から写真を撮っただけである。



ここで40代の男性と雑談。今日は掛川から歩いてきたそうで、どこまで行くのかと
聞くと行ける所までと云っていたが、浜松あるいはもう一つ向こうの舞坂まで歩くのかも
しれない。丁度12時だったので、掛川をかなり早く8時頃には出たのかもしれない。

見付付近は、例によって東海道ウオーカーが沢山うろうろしていた。
JR東海の「東海道ウオーキング」の指定コースになっているのかもしれない。
見付から掛川までは4里16kmだそうである。3時間半くらいで歩けると思うから
3時55分の電車が丁度良さそうだから、それに乗るつもりで歩くことにした。

見付宿では本陣跡とかその他の標識もあるそうだが、気が付かなかった。
早々に見付を立ち、次の袋井へ向う。

見付の松並木のあたりで、熟年男性3人組に会う。3人とも私と同じガイドブックを持っている。
今日は掛川から見付、磐田まで歩くという。東京から順番に歩いてきて京都まで歩く
そうである。今までは途中の宿泊はせず、日帰りの区切り歩きだそうである。
「東海道の丁度真中でお会いしました」と私に言っておられたが、私はすぐ意味が
分らず「はあ、そうですね」と答えたが、この辺りが旧東海道の真中になるのか。
ということはまだ半分しかあるいていないということなのか。
もっと歩いているような気がしたが、そんなものなのかとちょっとがっかりした。

1時丁度、袋井市という看板を見る。しかし袋井の中心まではまだ3kmくらいある。
近くのコンビニで、お茶とアイスクリームとビールのつまみを買う。ビールのつまみとは
手回しがよすぎる感じもするが。




袋井の松並木に差し掛かった。



この近くの小公園で休憩している東海道ウオーカーと見受けられる人がいたので
話し掛けた。その人はベンチに座って雑誌を読んでいた。
日焼けして浅黒い顔なので、一瞬ブラジル人か東南アジア系の人かと思い、日本語が
分るのかと不安になったが、日本人らしい。
どこまで行くのかと聞くと、神戸まで歩いていって、また東京へかえるところらしい。
リュックに寝袋か何かを入れている様子。野宿をしているのかと聞くとそうだという。
どんなところで寝るのかと聞くと、駅が多いとか、そうでなければ公園で寝るそうで
ある。一日40kmくらい歩くそうだが、一日二日歩かない時もあるとか。
先週の人のことを思い出し、食事は自炊するのかと聞くと、そうでもないらしい。
お金がないので、自動販売機でつり銭の残りなどお金が残っていないか探す、
それもなければ汚い話だが、ゴミの中から食べれるものを探すとか、深刻な話を
していた。まだ37才ということだが、商売に失敗して借金があるので、一つは
それから逃げるためもあって歩いているそうである。
京都ではなく、神戸まで行ったというんは、私の想像だが、単なるウオーキングでは
なく、金策にでも行ったのかもしれない。
私にとって旧東海道ウオーキングは名古屋から遠くなるにつれお金がだんだん掛かるし
これからは新幹線を使うか、宿泊ということも考えないといけないので、どうしようか
と思っているし、旧東海道ウオーキングはお金のかかる贅沢と思うが、この人は
お金がないから仕方なく歩いて、神戸まで行ってまた戻ってきているところらしい。
「まだ若いからやり直せるでしょう」というと「その気が残っていればできますが」と
ちょっと元気なく云ってた。
雑誌が3冊ほど置いてあったが、いかにも捨てられていたような、一般的な雑誌で
ない種類のものだった。
私もどんな話をしていいのか、よく分からず、早々にそこを立ち去り、次へ向った。

袋井宿に入る。
袋井は掛川と見付が4里とその距離が長いので、その中間に後から作られた宿場と
いうことで、町並みの長さも旧東海道の中で最も短かったそうである。
袋井は旧東海道のちょうど真中にあたるのか、東海道どまん中ということをあちこちに
書いてある。先ほど会った男性3人組もこれを見て、東海道の真中でお会いしましたと
云ったのであろう。
袋井には特に宿場としての面影など残るものはない。最近になって整備したもの、復元
したものなどで、旧東海道の宿としての風情などは全然ありません。

袋井市立西小学校という看板の他に
このとおり、東海道どまん中をうたった看板を
出している。




袋井から更に約8km掛川まで一本道をとことこ歩くだけである。

特に記すべき程のこともなく、掛川市に入る。
20kmを過ぎた辺りから腰が痛くなり、早く終わりたい、早くビールを飲みたいと
そればかり思いながら歩く。
アスファルトの道は30km歩くのは、なかなかきつい、しかも連続となると私には
無理なような気がする。毎日連続で30km〜40kmはどうしたら歩けるのかと思う。
歩き方が悪いのか、私の体が長距離を歩くのに向いていないのか、そんなことを考え
ながら、駅を目指す。


掛川市のはずれの醸造工場があった。
昔の造り酒屋さんなのだろう。




西掛川という天竜浜名湖鉄道の駅過ぎた辺りから旧東海道は大きく北へ遠回りするが
私は掛川駅へ直行の道を取った。

掛川駅着、3時40分、5時間50分、26.8km
電車を待っている間に駅のホームで缶ビールを飲む。
本当は電車の中でゆっくり飲みたいが、電車はまた満員だろうと思い、それまで
辛抱できなかった。

9月というのに、残暑がまだまだ厳しい。今日はこれだけ歩いただけで随分疲れた。
ふらふらという感じである。

また、電車を何本か乗り継ぎ、午後7時丁度に帰宅。今日の歩数、43,280歩