平成13年7月21日

尾西市起宿〜旧美濃路〜墨俣宿〜JR大垣駅(20.2km)

今日は、旧美濃路の続きを歩いてきた。

旧美濃路は名古屋・宮から岐阜県の垂井宿までの旧東海道の脇往還である。
垂井で旧中山道に合流する。
また美濃路は鎌倉街道(鎌倉に幕府があったころ、鎌倉と京都を結ぶ主街道)に
相当の部分で合致する。

前回(4月28日)はこのうち、愛知県西枇杷島町から尾西市起宿まで歩いたので、
今日はその続きをいう訳である。

今日も天気が気になるが、好天のようである。
暑くならないことを祈りながら家をでた。
自転車で地下鉄藤ケ丘に出て、名古屋からJRで尾張一宮へ出、後名鉄バスで
起へ向かった。
起バス停に9時5分に着いた。早速歩き出した。
この前来た時の記憶を辿りながら、木曽川の堤防へ出た。堤防から見ると
美濃路に面する家々の裏側から見るわけだが、大きな土蔵のある家もある。
当時はこの堤防はなかっただろうから、これらの家は裏がすぐ木曽川に面していた
のだろう。




濃尾大橋




さすが、木曽川は大きい、水も満々と流れいる。
この橋の長さは正確には知らないが、1kmはあるだろう。
実際これだけ長い橋を渡るのは、ちょっと気味が悪いくらいである。
この川が愛知県と岐阜県の境である。橋を渡ると岐阜県羽島市で
正木町新井というところである。
橋を渡った対岸の堤防に、石灯台がある。


起からの船が着いたところにあったものを
移設したもの。




旧美濃路は道として旧東海道のようにはっきりしている訳ではない。
HPで見た記事を参考に辿ることにしたのだが、道が分かるかどうか
不安である。

堤防を下り、まっすぐ西へ向かい、HPの記事のとおり、県道165号線を
越えた次の細い道を探す。
畑にいた男性に聞くと、始めの内は自信なさそうだったが、旧に途中から
自信たっぷりに旧美濃路はもっと向こう(私が歩いてきた元の方)だと
云う。あまりに自信がありそうなので、おかしいなと思いつつ元に戻った。
そこでその辺りにいた中年の女性に聞くが知らないという。
まぁいいかと北へ向かって歩き出した。
道が行きどまったので、西へ向かい、やはり始め考えていた細い道を北へ
向かった。

正木小学校の校庭に美濃路の一里塚跡を見つけた。



不破一色一里塚跡




旧美濃路が確認できたので、勇気百倍どんどん進む。

HPの記事によれば国道151号線に出た辺りで、この一帯の土地整理事業で
旧美濃路は数百メートル消滅しているとのことである。

旧美濃路は境川の堤防沿いだと思われるので、境川の堤防を目指して歩く。




境川の堤防に出る。





これから目指す墨俣宿は長良川の対岸である。
いずれにしても長良川を渡らないといけないが、昔は羽島市の小熊というところから
船が渡ったらしい。
このHPの記事によれば「羽島市小熊の渡しで長良川を渡ると墨俣町の上宿に着きます。
この渡船場上宿から西へ向かうと当時の面影を残した八幡宮前を通ります」
と書いてあるので、いかにも今でも長良川を船で渡る渡しがあるような錯覚がした。
私も今時渡しがある訳がないだろうと思いつつ、ひょっとするとそうかもしれないと
思い途中で二人の人に聞いたが、とっくの昔になくなっているとのことであった。

長良大橋という大きな橋を渡り、長良川を越して、墨俣町に入った。



橋を渡っている時、川の上流方面、北に城が
見えた。
歴史に名高い墨俣一夜城を模して、近年に
造った観光用の城である。



木下藤吉郎の出世の糸口となった一夜城は、藤吉郎が蜂須賀小六その他の協力で
事前の周到な準備の上、数日で造ったのは一種の砦とでも云うべきもので、
城というほどのものではなかったということだが、どちらにしてもこの墨俣の
唯一の観光資源である。

墨俣の町は小さい町の割に寺町という地名があるくらい、寺が多い。




ざぁと見て、5〜6軒のお寺がある。
墨俣は輪中である。輪中と寺という連想から
すぐ織田信長の一向宗との熾烈な戦争を
思い出す。
多分、お寺が多いのも、そのことと無縁では
ないと思う。




墨俣は小さな静かな町である。
歩いても見るものは少ない。
墨俣天王祭りの看板があちこちにある。見ると7月22日とある。
明日である。明日になると沢山の人出がでるのだろうか。
広場にテントの用意がしてあり、明日の準備らしい。

本陣跡は長良川に面した堤防の上にある。
建造物は何もないが、この本陣の門は近くのお寺の門になって残っていると
いうのが近所の女性の話だった。
旧街道の本陣や脇本陣の建物の一部が近所のお寺の一部になっているというのは
あちこちで見聞することである。本陣、脇本陣は時代の流れ、経済的理由で
没落していくが、お寺は強いのであろう。(特に愛知、三重ではそのように
思う)。



脇本陣跡の建物







墨俣の商店




先ほどの墨俣一夜城が歴史資料館にもなっているということだが、
見る気もないので、他に特に寄るところもなく、先へ急ぐことにした。

犀川という川の堤防の上を歩く。
ときたま、旧美濃路に関係のありそうな道標とか案内板とかがある。
きっちりした美濃路の標識は一切ないといってもいいほどである。

町屋という部落に出た。
昔はここから揖斐川を渡ったらしいが、勿論現在では渡船はない。
新揖斐川橋というのが、すこし北にあるので、渡るのはそれしかない。
揖斐川の堤防に出て、堤防の上を北へ向かい、新揖斐川橋を渡ろうと
思って、橋まで来て驚いた。
ここでは、この堤防から橋を渡れないのである。ここではもう橋は堤防より
すこし高いところにあり、堤防からは直接橋に乗れないのだ。
そのために200メートル位戻らないといけないのだ。
馬鹿にするなと言いたいところだが、仕方がない。
すこし遠回りになるが、橋沿いに歩いて、歩行者用の橋を渡る。

この新揖斐川橋を3分の2ほど渡ったところで、大垣市という標識が
出ていた。この川が大垣市と安八町(だと思う)を分ける境界である。
橋の真中ではなく、明らかに大垣寄りの個所で境界線となっているのは
それなりの意味があるのだろう。昔の揖斐川の真中だったということかも
しれない。

大垣市に入ったが、美濃路を辿って垂井まで行く気はなくなってきた。
ひとつには大垣には美濃路を辿る案内とか手がかりがまったくない。
市役所に電話をして、美濃路(鎌倉街道)の資料を聞いたが、本のコピーを
ファクスしてくれたが、美濃路を辿る地図としては使い物にならないもので
あった。
大垣のような中規模の市でこの西濃地区の中心的な都市では、町の発展に
より古い町並みなどはすでになくなっているのでないかと思う。

垂井までは10km以上あり、普通の道を歩いても意味がないなと
思い出した。
だんだん暑いのが苦痛になりだして、今日は大垣駅まで歩くことにした。

駅まで4km近くあるので、西を目指してとにかく歩くだけである。



大垣市に入ってすぐの小野というところで、
美濃路の標識を見た。


こういうのが、定期的に出ておれば、
歩く気もするのだが、その後は
こういう案内は見かけなかった。





途中、向こうからきた高校生と思われる女学生に、駅へ行くのは
この道ですかと聞くと、駅はこの道真っ直ぐだが、駅まで相当ありますよ
とのこと。相当といっても20分も掛からないでしょうと聞くと
いや、もっとありますよ、20分では歩けませんと云う。

そうは言っても地図で見ると2kmくらいではないかと思いつつ、とにかく
どんどん歩くのみ。

帝国繊維とかいう紡績工場のところに来た。
随分大きい工場らしい。
ややオーバーに云えば、見渡す限りの塀が続く。
そのやたら長い塀に沿って歩く。
やっと駅前商店街らしいところに差し掛かった。

駅はもうすぐだと確信できて、うどん屋があったので入る。
時間は1時半でもう昼は終わったのか、お客は一人いるだけである。

壁の品書きを見て、ビールと書いてないので、ちょっと不安になる。
「ひょっとしてこの店ににビールないんかいな」と思いつつ、
「おじさん、飲み物ないんですか」と聞くと
「飲み物はビールぐらいしかありませんが」という。
「ビールがあったらええんや」と思って、安心して荷物を降ろした。
ビールと冷麦を注文した。
ビールは大瓶しかなかったが、3分の2ほど飲んだとき、ひやむぎがきた。

今日もよく汗をかいた。ビール1本くらいの汗は出しただろう。

うどん屋で20分ほど休憩して駅へ向かった。

JR大垣駅に着いたのは、1時55分、20.2km 歩いていたのはちょうど4時間半。

やれやれである。古い町並みを訪ねるとか旧街道を歩くという意味では
ちょっとさびしい成果だったが、それはそれもよしとすることであろう。

午後3時過ぎに地下鉄藤ケ丘駅に降りたが、またそれからが暑かった。
家へ帰るまでに一汗かいた。

以上